2020年03月10日
岩津城址 岡崎市岩津町
岡崎市岩津町の岩津城址へ行ったんです。
松平家三代の信光が応永28年(1421)頃に築城したと云う。松平郷から平坦地へ勢力拡大をはかっ信光は祖の親氏の子であったが親氏没時は幼少であった事から叔父の奏親が継ぎその後信光が三代目になる。応永28年中根氏を攻め岩津へ進出し岩津城築城、移り住、拠点とした。文明年間、安祥城(あんじょうじょう)を奪うと安祥城へ移った。武田軍が元亀2年(1571)が三河に侵攻し廃城になったという、ここまで武田軍が押寄せたとは知らなかったです。家康の時、天正2年(1574)小牧長久手戦では城改修され現存しているようです。真横に東名高速道路が建設され城址が分断された。
岩津天満宮に着いたのですが何処に城址があるのかと案内板を探していると散歩中の方に出会い伺うと「橋を渡って右にある細い道を上がる、車は登れないから、何にもないですよ」との事。東名高速道路を跨ぐ橋を行くと右に案内板かあった
登って振り返る
どちらへ行くのかキョロキョロ、右に石仏を有ったので右に歩くと
竹藪の中に入った、周りを見るが土塁に囲まれた窪地のようだ
歩けそうもないので土塁にあがる、切堀もある
土塁上 土橋のようだ
さらに歩くと開けた所に出る
ここは何処?と見渡すと一部に土塁がある、土塁の上に石柱が見えた
「岩津城址」と刻まれている 裏に文字が刻まれているが良く解りません
後で判明した事ですが城址は個人所有?私の登った所の看板には明記されていませんです、 城址は整備されていませんから藪には入らない事が良かったようです、虫に咬まれました。
岩津城址は学問の神様を祀る岩津天満宮と元は繋がっていたようです。
宮の起源は近くの信光明寺の一誉上人が旅の途中で病になり近くの天満宮に祈願すると治った。鎌倉の荏原山天満宮から天神様を分霊、この地に祀った。創建は宝暦9年(1759) 祭神は菅原道真 松平家が祀ったのではない?ようですれ。
9日(月) 5℃ - 15℃ 快晴
10日(火) 7.5℃ - 9.5℃ 雨 約40mm
松平家三代の信光が応永28年(1421)頃に築城したと云う。松平郷から平坦地へ勢力拡大をはかっ信光は祖の親氏の子であったが親氏没時は幼少であった事から叔父の奏親が継ぎその後信光が三代目になる。応永28年中根氏を攻め岩津へ進出し岩津城築城、移り住、拠点とした。文明年間、安祥城(あんじょうじょう)を奪うと安祥城へ移った。武田軍が元亀2年(1571)が三河に侵攻し廃城になったという、ここまで武田軍が押寄せたとは知らなかったです。家康の時、天正2年(1574)小牧長久手戦では城改修され現存しているようです。真横に東名高速道路が建設され城址が分断された。
岩津天満宮に着いたのですが何処に城址があるのかと案内板を探していると散歩中の方に出会い伺うと「橋を渡って右にある細い道を上がる、車は登れないから、何にもないですよ」との事。東名高速道路を跨ぐ橋を行くと右に案内板かあった
登って振り返る
どちらへ行くのかキョロキョロ、右に石仏を有ったので右に歩くと
竹藪の中に入った、周りを見るが土塁に囲まれた窪地のようだ
歩けそうもないので土塁にあがる、切堀もある
土塁上 土橋のようだ
さらに歩くと開けた所に出る
ここは何処?と見渡すと一部に土塁がある、土塁の上に石柱が見えた
「岩津城址」と刻まれている 裏に文字が刻まれているが良く解りません
後で判明した事ですが城址は個人所有?私の登った所の看板には明記されていませんです、 城址は整備されていませんから藪には入らない事が良かったようです、虫に咬まれました。
岩津城址は学問の神様を祀る岩津天満宮と元は繋がっていたようです。
宮の起源は近くの信光明寺の一誉上人が旅の途中で病になり近くの天満宮に祈願すると治った。鎌倉の荏原山天満宮から天神様を分霊、この地に祀った。創建は宝暦9年(1759) 祭神は菅原道真 松平家が祀ったのではない?ようですれ。
9日(月) 5℃ - 15℃ 快晴
10日(火) 7.5℃ - 9.5℃ 雨 約40mm