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歴史 伝説 その他

2014年03月16日

長篠設楽原の戦い・見聞録 22

 鳥居強右衛門磔刑になる

 強右衛門は偽って「援軍来る」の報を城内2人に弾正廓から声高らかに告げたと云う。
 城の対岸、寒狭川右岸の有海原(篠場野)で磔の刑になった。
長篠設楽原の戦い・見聞録 22
 
 磔台に縛られた状態で「援軍来る」と言い、その場で槍に射された説もある。
 2本目の槍を刺そうとした時、待てと強右衛門か言い辞世の歌を詠んだ。
  我が君の 命に替る玉の緒を
    などいとひけん 武士(もののふ)の道

 4本目の時は虫の息だった、武田方の落合佐平冶は立派な最期に感動しその姿を自分の背旗指物に画かんと頼むとわずかにうなずき息が絶えたという。
長篠設楽原の戦い・見聞録 22
 磔死之址
 
 磔の場所については諸説あります。
 今、城対岸上(寒狭川)にある「鳥居強右衛門磔死之祉」は地元の老婦人に伺うと新東名の下にあった、牛渕橋から新昌寺の裏に道があって畑の中に磔碑が大正2年4月に長篠古戦城顕彰会が建てた、お参りに簡単に行けたが昭和44年に田んぼ、畑に改良時に今の所へ移転した、ただ、磔場に碑が建っていたかはわからないという。
長篠設楽原の戦い・見聞録 22

 地元、乗本の柹原明十氏(かきはらめいじゅう明治10年生)が砦を主に記した中に医王寺の横山良仙和尚(新昌寺生まれ)の話として「あの場所に磔碑を建てるのは大不賛成、話がなく建った、明治15.6年のころは全くの草原で磔殺のような跡物件は何もなかった、今の牛渕橋際の西の切り割り上に少し高くなっていて約百坪の檪林(くぬぎはやし)があってそこで鳥居が磔殺されたと言い伝えがあり、径三尺もあらんかと思われる桜樹の半ば朽ちたものがあった」という。柹原氏が11歳のころ明治20年、この原で4.5の小学校の運動会があった時、先生から磔殺場所と聞き、桜樹があるのを見た、今の碑の場所付近は競技をした運動場と記憶していると記している。今の碑とは現場所の碑でなく、新東名の所を言っています。
長篠設楽原の戦い・見聞録 22
 牛渕橋西、新東名付近
長篠設楽原の戦い・見聞録 22
 飯田線篠原踏切から豊川方向を見る

 今は当時の面影がない 


 つづく

今の碑



 



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Posted by エル at 17:18
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