2014年05月20日
長篠設楽原の戦い・見聞録 61
屏風図の合戦ー11
鎧(よろい)兜等装備を黑で統一して武田軍の「黑武者」と呼ばれていた小諸城主・武田信豊は200騎(兵)をもって中央の織田軍、滝川一益、佐々成政の守る柵へ激しく突撃するが鉄砲の射撃に合い棚に辿りつけずに敗退した。
赤⇒武田信豊
武田軍劣勢とみて早めに戦線離脱したという。甲州に帰るが後に高坂昌信が怒り勝頼に信豊を切腹させるように進言したとか。
天正10年(1582)織田信忠の木曾攻めと木曾義昌の離反に対し出陣するが鳥居峠で敗北、家臣20騎と小諸城に逃げる、信豊が二の丸にいた所、城代・下曾根が裏切り、火をかけられ切腹し一族ともに滅亡した信豊34歳。下曽根は信豊の首を信忠に差出て服従しようとしたが「主人を騙し討ちにした不忠者」として追放処分になった。信豊の二男は生き延びたという。
織田の佐久間信盛が棚外の小丘、丸山に旗を立てている所へ馬場信春700騎が二手に分かれ大太鼓を打ち攻め込み激戦になり佐久間勢は棚内に退いた。
馬場信春
図では同一人物が時間経過をして馬場が二ヶ所に描かれている
右翼の馬場が左翼になり、討死ヶ所は正しいと思う。
白い采配は馬場の印
上は馬場が討ち取られる図
異時同図法という表現法だそうです。
追って来た馬場勢に佐々・前田鉄砲隊が立ち替り撃ちつづけたので先頭の兵は悉く(ことごとく)倒れた。
激戦の丸山、削られて小さくなったそうです
丸山の上から勝頼観戦地を見る
1580年、信盛は参戦しながら消極的戦いなどを綴った織田信長の自筆19ヶ条の折檻状を突き付けられ嫡男・信栄(のぶひで)と共に高野山蟄居、高野山も追われ十津川にて55歳死去。後に信栄は帰参を許され旗本として在続した。
丸山
つづく
鎧(よろい)兜等装備を黑で統一して武田軍の「黑武者」と呼ばれていた小諸城主・武田信豊は200騎(兵)をもって中央の織田軍、滝川一益、佐々成政の守る柵へ激しく突撃するが鉄砲の射撃に合い棚に辿りつけずに敗退した。
赤⇒武田信豊
武田軍劣勢とみて早めに戦線離脱したという。甲州に帰るが後に高坂昌信が怒り勝頼に信豊を切腹させるように進言したとか。
天正10年(1582)織田信忠の木曾攻めと木曾義昌の離反に対し出陣するが鳥居峠で敗北、家臣20騎と小諸城に逃げる、信豊が二の丸にいた所、城代・下曾根が裏切り、火をかけられ切腹し一族ともに滅亡した信豊34歳。下曽根は信豊の首を信忠に差出て服従しようとしたが「主人を騙し討ちにした不忠者」として追放処分になった。信豊の二男は生き延びたという。
織田の佐久間信盛が棚外の小丘、丸山に旗を立てている所へ馬場信春700騎が二手に分かれ大太鼓を打ち攻め込み激戦になり佐久間勢は棚内に退いた。
馬場信春
図では同一人物が時間経過をして馬場が二ヶ所に描かれている
右翼の馬場が左翼になり、討死ヶ所は正しいと思う。
白い采配は馬場の印
上は馬場が討ち取られる図
異時同図法という表現法だそうです。
追って来た馬場勢に佐々・前田鉄砲隊が立ち替り撃ちつづけたので先頭の兵は悉く(ことごとく)倒れた。
激戦の丸山、削られて小さくなったそうです
丸山の上から勝頼観戦地を見る
1580年、信盛は参戦しながら消極的戦いなどを綴った織田信長の自筆19ヶ条の折檻状を突き付けられ嫡男・信栄(のぶひで)と共に高野山蟄居、高野山も追われ十津川にて55歳死去。後に信栄は帰参を許され旗本として在続した。
丸山
つづく