2016年07月12日
井伊家ゆかりの地 信州市田郷・松源寺2
龍潭寺と松源寺の関係はどうでしょうか
井伊家20・井伊直平が松源寺の文叔瑞郁禅師(ぶんしゅくずいいくぜんじ)を龍潭寺の前、自淨院に迎えたのが始まりという。文叔瑞郁禅師は応仁元年(1468)生まれで市田郷などの領主、松岡伊予守守貞の実弟であった。松源寺を開山した名僧であった。井伊家の菩提寺龍潭寺を開山したのは文叔禅師の弟子・黙宗瑞淵(もくじゅうずいえん)禅師であったと説明文にある。
この縁で亀之丞(井伊直親・直政の父・直虎の許婚)は松源寺に逃れ9歳から20歳まで過す。
今の松源寺
元の松源寺は寺山という所にあって平安時代に建てられ明永寺と古文書にあるという。南北朝ごろ火災焼失廃墟がつづいた。永正年間(1510ころ)松岡城主・松岡貞正が牛牧(寺山)に松源寺を創建、開山は実弟文叔禅師である。
松源寺があった寺山
段丘地帯 天竜川方向へ緩やかな傾斜がつづく
寺山と現在地は地図で見ると約2km離れている
亀之丞9歳は天文14年(1545)松源寺へ逃れ20歳になって井伊谷に戻ったとあることから武田軍が伊那侵攻時(1554)は松源寺にいた事になる。身元を隠して寺小僧になっていたでしょう。
天文23年(1554)甲斐の武田信玄が大軍で伊那に侵攻、松岡家は抵抗は無理と軍門に降り領土安堵される。軍役50騎をだす。
天正10年(1582)武田家攻めに織田信長が伊那に侵入、兵火により市田郷の寺は焼ける。松岡城主だった松岡兵部大輔頼貞は信長に順じ領安堵される。
ところが本能寺の変で信長急死、徳川か豊臣に従うか迷っている時、天正13年(1585)松本の小笠原氏が保科氏(徳川方)高遠を攻める。
つづく
井伊家20・井伊直平が松源寺の文叔瑞郁禅師(ぶんしゅくずいいくぜんじ)を龍潭寺の前、自淨院に迎えたのが始まりという。文叔瑞郁禅師は応仁元年(1468)生まれで市田郷などの領主、松岡伊予守守貞の実弟であった。松源寺を開山した名僧であった。井伊家の菩提寺龍潭寺を開山したのは文叔禅師の弟子・黙宗瑞淵(もくじゅうずいえん)禅師であったと説明文にある。
この縁で亀之丞(井伊直親・直政の父・直虎の許婚)は松源寺に逃れ9歳から20歳まで過す。
今の松源寺
元の松源寺は寺山という所にあって平安時代に建てられ明永寺と古文書にあるという。南北朝ごろ火災焼失廃墟がつづいた。永正年間(1510ころ)松岡城主・松岡貞正が牛牧(寺山)に松源寺を創建、開山は実弟文叔禅師である。
松源寺があった寺山
段丘地帯 天竜川方向へ緩やかな傾斜がつづく
寺山と現在地は地図で見ると約2km離れている
亀之丞9歳は天文14年(1545)松源寺へ逃れ20歳になって井伊谷に戻ったとあることから武田軍が伊那侵攻時(1554)は松源寺にいた事になる。身元を隠して寺小僧になっていたでしょう。
天文23年(1554)甲斐の武田信玄が大軍で伊那に侵攻、松岡家は抵抗は無理と軍門に降り領土安堵される。軍役50騎をだす。
天正10年(1582)武田家攻めに織田信長が伊那に侵入、兵火により市田郷の寺は焼ける。松岡城主だった松岡兵部大輔頼貞は信長に順じ領安堵される。
ところが本能寺の変で信長急死、徳川か豊臣に従うか迷っている時、天正13年(1585)松本の小笠原氏が保科氏(徳川方)高遠を攻める。
つづく