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2016年11月03日

橘逸勢死した板築駅は

 承和の変に係わったと伊豆国へ流罪になった橘逸勢(たちばなはやなり)は遠江国板築駅(静岡県浜松市北区三ヶ日町日比沢)で承和(じょうわ)9年(842)8月24日(現・9月24日)死亡したという。(10月28日の続編になります)
案内板
橘逸勢死した板築駅は
板築駅跡は国道362号線の脇にあった
橘逸勢死した板築駅は
橘逸勢死した板築駅は

その時、初逸勢之赴配所也、有一女、悲泣歩従、官兵監送叱之令去。女昼止夜行、遂得相従。逸勢の娘が泣きながら着いて来る、来るなと兵が叱るが昼は止め夜になると追いかけてきた、とある。逸勢が死亡すると娘は落髪し尼になり自名妙沖、とある。地元人が庵の妙沖に食べ物を与えた。今でも11月15日に庵居所に「オタガネ」といい献花しているという。
 板築山226m  ほうづき、峯月と書いたのもあり
橘逸勢死した板築駅は

 橘の樹木は中国南部原産、田道間守が得参した(日本書記巻六)と云う。推定ですが延歴元年(782)生まれ、五人兄姉の末子に産まれる。当時は国内統一ができず蝦夷問題が重要であったようで軍3万5千を奥羽へ送るなどが書かれてた本がある。
 逸勢は11代垂仁天皇の令により22才?延歴22年(782)中国留学遣唐使として選ばれる。趣目的は仏教の伝、政りごとの改革学、文献物の仕入れなど文明の進んだ中国から仕入れることと交流であったとおもわれる。
 遣唐使として延歴22年(804)7月6日、空海らと23人乗船、大坂津崎→博多へ、風向きを見て中国揚子江から長安へ出航する。第2船に最澄ら27人が乗船。7日、暴風雨にあい第1船は1ヵ月漂流し8月10日南方の地に着く、第2船は9月1日、遠方地に着く、第4船は行方不明になった。上陸は認められず空海が書を認めるが疑う、空海は2回目の書状を書く。やっと遣唐使と認められ10月3日恒州へ廻航され、暫く待機し11月3日長安へ出発、途中から乗馬を与えられ12月23日長安へ入ったという。
 空海が途中で帰国したのはこの時?か?
 
命がけの旅だったのです。

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 板築駅跡










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Posted by エル at 22:05
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