2017年05月13日
井伊直虎ゆかりの地ー44 瀬戸方久(新田喜斎)処刑地
瀬戸方久と新田喜斎が同一人物か?私としては確信できないで今日まできていますが処刑されたと云います。いろいろな説があります、永禄の始め城を捨て剃髪して名を法休喜斎として呉石に隠居した。堀川城の事と思うが徳川軍に攻められ落城、井伊氏物語には永禄12年(1569)3月27日気賀堀川城を攻めるとある。
井伊氏物語に慶長11年(1606)8月15日 気賀郷呉石で刑死、龍潭寺に葬る、法名知足院歓屋宗喜居士 とある。以前に龍潭寺で瀬戸方久のお墓はない、お位牌は預かっている、と聞いている。墓は知足院、その後、全得寺に合祀された。
浜松市北区気賀の図書館に行き調べていると観光マップに新田喜斎供養碑があり堀川城主と記載されている。
国道362号線細江中学校近くから西へ入った辺り、車を降りてマップにある辺りを探すが見当たらない。近くの石材店で伺うと「供養塔は道路工事で撤去して預かっている」と言います。石材店前の細い道を上りカーブした所にあったが昨年末にここに持って来た」探しても見当たらないはずだ。
カーブ脇に碑があった
預かっている石碑
裏面が見えないのが残念
喜斎は独身を通したが妾腹に3人の子(姫)がいた、家臣?か解りませんが中村家は一姫を娶り老ヶ谷(伊目)に隠れ住んだという。
なぜ刑死になったか?徳川家の支配になり塩が統制されたのか高価になり安価な三河塩を仕入れた、代官の松下常慶安綱、石川半三郎が喜斎の船を検分したところ塩があった。また、民の願いを聞き嘆願書を代筆したことが代官に咎められと云う。
徳川に叛いた堀川城主の新田喜斎が生きている?ことが不思議である。堀川城落城後徳川軍は近郷を探索し数百人の首を落し獄門畷に並べたという。身分を隠し通せるものではないと思いますが。
姓氏家系大辞典 第三巻(太田亮・角川書店)には 三河遠江の新田氏 二葉松に「設楽郡名倉村清水城。新田孫六、或は右衛門の居城也。此の末葉・遠州堀江の城主」と載せたり。遠江大澤氏配下の将に新田友作入道喜斎あり。
とあります。
つづく
碑のあった所
井伊氏物語に慶長11年(1606)8月15日 気賀郷呉石で刑死、龍潭寺に葬る、法名知足院歓屋宗喜居士 とある。以前に龍潭寺で瀬戸方久のお墓はない、お位牌は預かっている、と聞いている。墓は知足院、その後、全得寺に合祀された。
浜松市北区気賀の図書館に行き調べていると観光マップに新田喜斎供養碑があり堀川城主と記載されている。
国道362号線細江中学校近くから西へ入った辺り、車を降りてマップにある辺りを探すが見当たらない。近くの石材店で伺うと「供養塔は道路工事で撤去して預かっている」と言います。石材店前の細い道を上りカーブした所にあったが昨年末にここに持って来た」探しても見当たらないはずだ。
カーブ脇に碑があった
預かっている石碑
裏面が見えないのが残念
喜斎は独身を通したが妾腹に3人の子(姫)がいた、家臣?か解りませんが中村家は一姫を娶り老ヶ谷(伊目)に隠れ住んだという。
なぜ刑死になったか?徳川家の支配になり塩が統制されたのか高価になり安価な三河塩を仕入れた、代官の松下常慶安綱、石川半三郎が喜斎の船を検分したところ塩があった。また、民の願いを聞き嘆願書を代筆したことが代官に咎められと云う。
徳川に叛いた堀川城主の新田喜斎が生きている?ことが不思議である。堀川城落城後徳川軍は近郷を探索し数百人の首を落し獄門畷に並べたという。身分を隠し通せるものではないと思いますが。
姓氏家系大辞典 第三巻(太田亮・角川書店)には 三河遠江の新田氏 二葉松に「設楽郡名倉村清水城。新田孫六、或は右衛門の居城也。此の末葉・遠州堀江の城主」と載せたり。遠江大澤氏配下の将に新田友作入道喜斎あり。
とあります。
つづく
碑のあった所