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歴史 伝説 その他

2018年09月08日

長沢松平家 探索 3

松平 10代、忠輝のつづきです。
 長沢城跡図
長沢松平家 探索 3
城南に東海道が通る、今は城跡を国道1号線が分断、南は小学校、北は住宅地になった

 高貴、大名を馬や駕籠に乗ったまま通過する事は無礼として切り捨ては正当な行為であった。大坂城攻めに遅参してのこの行為に家康、異母兄の秀忠から非難を浴びる。家康から伊勢国朝熊へ配流命令が出る。母茶阿、伊達政宗が許しを願いが叶わず改易になる。伊勢から飛騨高山の金森重頼へ預りが決まり使者として近藤秀用(やすもち)が赴くが命令を受け入れず「吾に罪あらば死をたまわるべし」と動じなかった。家康が亡くなると秀忠が2代将軍になる。妻五郎八姫と離婚させられる。寛永3年(1626年)信濃国諏訪頼水に預りとなる。天和3年(1683年)諏訪高島城にて91歳亡くなる。墓所は諏訪市貞松院。竹の局との間に子・徳松がいたが武蔵国岩槻藩(さいたま市)阿部重次に預かりになり寛永9年(1632年)住居に火放ち自殺する、18歳だった。
 長沢松平家は断絶したかに思われたが庶流(しょりゅう・本家の分家)があった。庶流は8代康忠が亰へ隠居したが娘を一族の松平久助忠直に嫁がせていた。その子直信3歳を養子にしていた。直信をもって御家再興を将軍家に願い出るが門前払いだった。

【11代 直信」 8代康忠の養子
 康忠が亰で元和4年(1616年)没すると直信が長沢松平家の家宝書類を譲られ継ぐ。直信は多病にて公職に就けず御馬村(豊川市御津町)いた。元禄元年(1688年)死去。

【12代 昌興】 
 昌興も松平家として公職に就けずにい。享保3年(1718年)家柄を示す証拠書類を携え御目付役・鈴木伊兵衛直武へ御家再興を願い出る。町奉行・中山出雲守時春は明らかにしようとしたが、再三の願いを聞き入れない事に嫌気がさし、昌興の子・源七郎親孝は享保6年(1721年)7月18日証拠の伝来家宝と訴えを認(したた)めた書を大手の橋上に捨て置いた。届けられた書類のなかに東照大権現様(徳川家康)花押書付などがあったことから役人に詳しく取り調べられた結果、改易になった長沢松平家の末裔であることが明らかになった。しかし将軍・家康、秀忠の逆鱗によって配流、断絶の家、享保7年正月12日特許があり、碧海郡中根村に10余町歩の草地と費用として白銀百枚を賜り御馬村から中根村へ移る。親孝は東照宮花押書をみだりに捨てた罪に問われたが特別な計らいにて「しばらくの間、その辺を徘徊するにとどる」とのお達しだった。享保8年(1723年)1月将軍吉宗に謁見する。中根村から先祖の地の長沢村へ替えてほしいと願い出て認められ屋敷その周辺を与えられたと推測される。昌興は享保15年(1730年)80歳にて没した。

 8代康忠が長篠の戦参戦図
 鳶が巣砦奇襲隊
長沢松平家 探索 3
黒丸は鳶が巣山砦 
 最前:地元の案内人 豊田は吉川村住、近藤は宇利城主、阿部も地元住
 酒井忠次に続き松平康忠の名がある 


 つづく


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Posted by エル at 11:57
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