2014年01月17日
長篠城を脱出したもう一人 3
作手田代(つくでたしろ)は金七郎が生まれ育った川上村(新城市富永)から北西へ標高700mの雁峰連峰を越へ直線3.6㎞に位置し山地の比較的平坦な土地である。
長篠・設楽原の戦いは織田・徳川連合軍の大勝利に終わったが鈴木金七郎重正は奥平家に従せず、川上村に留まりその後作手田代村にて帰農、開墾して田代鈴木家の祖になった。
田代鈴木本家を訪ねると快く少し北へ上がった墓地に案内して頂く。
立派な墓で堂々としている
金七郎夫婦の墓である、今、田代には子孫5軒であるという。
長篠設楽原戦い後27年、慶長27年(1602)奥平信正(貞昌から信長の信を賜り改名)の4男、松平上総守(かずさのかみ)忠明は祖父の旧領地を所望し作手郷に封ぜられるや旧臣を広く求め禄を与えた。忠明は領内巡視時、田代に至り金七郎を訪ね、密使としての旧功に報い、禄200石を給したという。
宅脇には樹齢4・5百年のカヤノキがあり歴史を感じた。
他の説
金七郎は
忠明の本家、奥平に仕えた。
家康の命で水戸家、徳川頼房、家康の11子に仕えたともいう。
新城市作手田代地区
長篠・設楽原の戦いは織田・徳川連合軍の大勝利に終わったが鈴木金七郎重正は奥平家に従せず、川上村に留まりその後作手田代村にて帰農、開墾して田代鈴木家の祖になった。
田代鈴木本家を訪ねると快く少し北へ上がった墓地に案内して頂く。
立派な墓で堂々としている
金七郎夫婦の墓である、今、田代には子孫5軒であるという。
長篠設楽原戦い後27年、慶長27年(1602)奥平信正(貞昌から信長の信を賜り改名)の4男、松平上総守(かずさのかみ)忠明は祖父の旧領地を所望し作手郷に封ぜられるや旧臣を広く求め禄を与えた。忠明は領内巡視時、田代に至り金七郎を訪ね、密使としての旧功に報い、禄200石を給したという。
宅脇には樹齢4・5百年のカヤノキがあり歴史を感じた。
他の説
金七郎は
忠明の本家、奥平に仕えた。
家康の命で水戸家、徳川頼房、家康の11子に仕えたともいう。
新城市作手田代地区