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歴史 伝説 その他

2016年06月22日

井伊家ゆかりの地 宗良親王はどこへ向かったか

 宗良親王はその後、何処でどのような人生を送ったのだろうか。
 井伊谷の戦い記録が三ヵ日町の大福寺にあるという。延元4年(1339)28歳宗良親王、井伊城に在す。7月22日高師泰大平城を攻める8月24日夜落ちる。南北朝時代の住職が記録したもので北朝の高師泰(こうのもろやす)が太平を攻める、高師兼は鴨江城を攻め、千頭峯(うずね)城(入出村)、三嶽城は延元5年(1340)落城、大平城は8月24日落城。井伊家勢力もバラバラになった。完全な敗北に宗良親王はその後どのような行動をとったか、諸説ある、太平城落城後、駿河の貞長の下に翌年の秋まで逗留した、甥の興良親王がいたから、その後に信州へ入った。親王は直ちに越後へ向かった、親王が井伊谷にいつまでいたか、何時転出したかは明確な確定する事はできない。遠州から越後までは相当な距離であるから安全な土地なら数日間の滞在を繰り返して越後へ向われたことでしょう。なぜ越後か、新田氏の豪族勢力を頼ってのこととおもわれます。親王の越後までの足取りは分からないが興国2年(1341)「越後国寺泊」で歌を詠んでいる事からであり越中へは船で移動し奈古浦、呉西地区、射水辺りを移動されていたと想われる、33,4歳ごろか。興国5年1344)頃に香坂高宗の住す信濃大河原へ移動する。
 宗良親王を匿った大河原城祉
井伊家ゆかりの地 宗良親王はどこへ向かったか
 長野県大鹿村
高台から見た大河原城址景観
井伊家ゆかりの地 宗良親王はどこへ向かったか
 山間の地、法面は崩落個所が多数ある奥地です
 宗良親王は信濃宮と呼ばれた

駿河の興良親王を訪問とか上野国寺尾に在住したとかの説がある。新田義興が上野国にて挙兵するが敗れる、約2年ほど居たとおもわれます。親王、信濃へ戻る。
 そのころ天平6年(1352)「正平一統」という南北朝統一がなされた。北朝が廃止され南朝に統一し平穏な社会になるかと想われたが統一条件に違反していると足利氏が武力にでた。またも戦乱の中、新田義興は上野で挙兵し越後などを転戦する。天平10年(1355)信濃桔梗ヶ原戦いで負ける。大河原へ隠住む,45歳ごろ。

 宗良親王は井伊谷では井伊谷宮、信濃では信濃宮と地元では歓迎されていたのです。

大鹿村観光協会






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Posted by エル at 21:17
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