QRコード
QRCODE
アクセスカウンタ
読者登録
メールアドレスを入力して登録する事で、このブログの新着エントリーをメールでお届けいたします。解除は→こちら
現在の読者数 38人
プロフィール
エル
エル
生まれ育った地域のこと、訪ねて聴いて写真に撮って・・・
歴史 伝説 その他

2017年02月14日

井伊直虎ゆかりの地ー19 仏坂十一面観世音菩薩と戦い

 前にも記載した事のある浜松市北区引佐町伊平の竹馬寺にある仏坂十一面観音様が昨年、33毎の御開帳だったが今年は特別に12日御開帳をするという。
 元正天皇の霊亀年間(715~16)行基がこの地で五仏を四方浄土に建立した。
 竹馬寺 霊気陽光か 
井伊直虎ゆかりの地ー19 仏坂十一面観世音菩薩と戦い
四方浄土
 東の川名 薬師如来
 西の的場 阿弥陀如来
 北の別所 釈迦如来
 南の井平 十一面観音(当地)
 安置したという。 
 この観音様について地元が直虎関連資料物語として書いた物がある。
 元亀3年1573)10月武田軍山県昌景隊が5千の兵を奥三河から山吉田、柿本城を落し井伊谷に攻め込む。仏坂は国境であるため殺戮放火の激戦が予想された。直虎が山県昌景と掛け合い十一面観音を避難させてくれるよう頼んだ。無事に気賀の観行院に移されたとあった。
 イメージをふくらませた物語と記してありました。

 この戦いは「仏坂の戦い」として伝承され井平城主の井平飛騨守直成ら88人が戦死した。峠道に戦死者を祀った御墓「ふろんぼ様」と云う墓が木立の中に数ヵ所ある。
 ふろんぼさま 古坊様 
井伊直虎ゆかりの地ー19 仏坂十一面観世音菩薩と戦い
 元亀2年10月22日 井伊飛騨守と書いた物もある、また山吉田の鈴木重時の弟・重俊は柿本城から退きこの地で防戦するが鉄砲に撃たれ即死した遺骸は仏坂に埋葬した、墓は満光寺、龍潭寺にも墓碑位牌ある重時の家臣は甲、頬宛脇差取り退いたという。子孫は苗字帯刀を許され天竜市只来(ただらい)に住んでいる。

 その後 暫く観音様は気賀から帰らなかった。

 武田氏は滅亡し江戸時代になると近藤家が領主になり家老の今泉兵左衛門正成が寛文11年(1671)石の聖観音を寄進した。
 石の聖観音様
井伊直虎ゆかりの地ー19 仏坂十一面観世音菩薩と戦い

 観行院に避難していた十一面観音様を仏坂に複座されたい願望が近郷に高まり、天明9年(1789)伊平村役人が観音様返還を申し出る。再び仏坂に観音様が戻り郷人は喜び長興寺12世鉄源和尚による盛大な鎮座供養が行われた。
 御開帳式
井伊直虎ゆかりの地ー19 仏坂十一面観世音菩薩と戦い
井伊直虎ゆかりの地ー19 仏坂十一面観世音菩薩と戦い
井伊直虎ゆかりの地ー19 仏坂十一面観世音菩薩と戦い
井伊直虎ゆかりの地ー19 仏坂十一面観世音菩薩と戦い
井伊直虎ゆかりの地ー19 仏坂十一面観世音菩薩と戦い
 嘉永4年(1851)江戸城西の丸が全焼すると仏坂の大杉伐採命令が下る、郷人は霊木であるからと伐採免除を申し立てるが却下され大杉120本が伐採られた。
 翌年あたりから7年にかけて疫病が流行したという。

 明治になると明治政府の諸佛併合、廃仏毀釈があり十一面観音など仏像は長興寺に仮安置した。
 明治12年松山観音堂が新築されると竹馬寺でなく松山に還座した。大正時代に悪病火災があり元の仏坂竹馬寺に十一面観音様を還座し今になっているという。

十一面観音様
  桧木 一本作り 像高 164cm
  
 つづく


 0℃ → 11℃ 晴れ


同じカテゴリー(観光)の記事画像
長篠合戦、三部まつり
フランクフルをお供えして
河津桜まもなく満開
花祭りの歌
決戦から来年で450年 東日新聞
綺麗になりました
同じカテゴリー(観光)の記事
 長篠合戦、三部まつり (2024-04-23 10:34)
 フランクフルをお供えして (2024-04-01 17:13)
 河津桜まもなく満開 (2024-02-27 14:43)
 花祭りの歌 (2024-02-21 09:00)
 決戦から来年で450年 東日新聞 (2024-01-04 12:30)
 綺麗になりました (2023-12-06 14:42)

Posted by エル at 12:00
Comments(0)観光歴史伝説
上の画像に書かれている文字を入力して下さい
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。