2017年02月23日
井伊直虎ゆかりの地ー23 奥山氏
井伊家の家臣に奥山家がある。井伊家8代辺りで分家し奥山郷(浜松市北区引佐町奥山)に居を構えていた。
館跡?城址とは思えない
みかん畑になっている
県道303号線 奥山神社に奥山城跡の石碑
代々井伊家に仕え一族と親戚関係を結んでいる。
亀之丞が元服し妻に迎えたのが奥山朝利(ともとし)の娘、おひよである。また、新野左馬助の妻は朝利の妹とされている。
奥山朝利は今川義元の命により井伊家の家臣として息子・孫一郎と共に井伊家当主・井伊直盛に属し桶狭間で織田信長軍の奇襲に遇い今川義元、井伊家22代直盛・奥山朝利戦死した。その時、井伊直盛が奥山孫一郎に遺言する。嫡男・直親、井伊家一族に「井伊家は家臣・中野越後守直由に預けよ」と言い、「これまでの命、自刃する孫一郎、介錯せよ」と命を絶った。首をもって孫一郎は井伊谷に帰る。
龍潭寺にある奥山3代の墓
奥山10代 親朝、11代 朝利、12代 朝宗
龍潭寺の記録では永禄3年(1560)10月22日、12月22日小野政次に討たれた。
井伊年譜には同年12月22日小野政次に討たれたとあるという。
井伊家の墓
正面右 初代 共保
左 22代 直盛
永禄4年(1561)2月9日虎松生まれる
奥山家からは新野左馬助の妻に朝利の妹が嫁ぐ
井伊直盛の妻に新野左馬助の娘が嫁ぎ直虎(次郎法師)が生まれる
井伊直盛の養子に直親(亀之丞)が入り
奥山因幡守朝利の娘が直親と結婚し虎松(直政)永禄4年(1561)2月9日うまれる。
つづく
7℃ → 17℃ 雨のち曇り晴
館跡?城址とは思えない
みかん畑になっている
県道303号線 奥山神社に奥山城跡の石碑
代々井伊家に仕え一族と親戚関係を結んでいる。
亀之丞が元服し妻に迎えたのが奥山朝利(ともとし)の娘、おひよである。また、新野左馬助の妻は朝利の妹とされている。
奥山朝利は今川義元の命により井伊家の家臣として息子・孫一郎と共に井伊家当主・井伊直盛に属し桶狭間で織田信長軍の奇襲に遇い今川義元、井伊家22代直盛・奥山朝利戦死した。その時、井伊直盛が奥山孫一郎に遺言する。嫡男・直親、井伊家一族に「井伊家は家臣・中野越後守直由に預けよ」と言い、「これまでの命、自刃する孫一郎、介錯せよ」と命を絶った。首をもって孫一郎は井伊谷に帰る。
龍潭寺にある奥山3代の墓
奥山10代 親朝、11代 朝利、12代 朝宗
龍潭寺の記録では永禄3年(1560)10月22日、12月22日小野政次に討たれた。
井伊年譜には同年12月22日小野政次に討たれたとあるという。
井伊家の墓
正面右 初代 共保
左 22代 直盛
永禄4年(1561)2月9日虎松生まれる
奥山家からは新野左馬助の妻に朝利の妹が嫁ぐ
井伊直盛の妻に新野左馬助の娘が嫁ぎ直虎(次郎法師)が生まれる
井伊直盛の養子に直親(亀之丞)が入り
奥山因幡守朝利の娘が直親と結婚し虎松(直政)永禄4年(1561)2月9日うまれる。
つづく
7℃ → 17℃ 雨のち曇り晴