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歴史 伝説 その他

2017年07月29日

井伊直虎ゆかりの地 60 宇津山城跡ー2 

 前記載した「宇津山城跡」には城主の名前がなかったのですが分かりました。宇津山城跡は湖西市入出字城山にあります。
 大永4年(1524)3月、今川氏親が三河国の監視拠点として浜名湖西、宇津山半島に築城した時は朝比奈紀伊泰満が城主だった。
 永禄8年(1565)家康が今川方の吉田城を攻め吉田城の小原肥前守鎮実は和睦して宇津山城に引上げる。
 永禄11年(1568)3月、徳川家康の家臣、吉田城主・酒井忠次が宇津山城を攻めると小原肥前は戦いをせず小舟で脱出し花沢城(焼津)へ入る。元亀元年(1570)1月、武田信玄が駿河に攻めこむと旧知の高天神城主・小笠原長忠をたより救援を頼むが鎮実が永禄4年吉田城外で今川方の人質になっていた三河衆13人を串刺し殺害した。この事を知っていた小笠原長忠は拒否、鎮実は城下の毛森村にて自害した。

 13人について調べると「十三本塚」のこと
 豊橋市富本町字東郷、小池坂上の旧道沿い 高師口交差点西に石柱があった。

 永禄3年(1560)桶狭間の戦いで今川義元が討死すると家康は岡崎城に入り三河の平定に乗り出す。今まで今川氏に従っていた三河衆は今川氏の減退を想うと徳川氏へ接近する者が出て来る。この時の吉田城主・小原肥前守鎮実は三河衆の出した人質13人を龍拈寺門前で串刺しの刑にした。
 龍拈寺(りゅうねんじ)門 豊橋市新吉町3
井伊直虎ゆかりの地 60 宇津山城跡ー2 
 境内から見る 先の戦争でも燃えず残った
井伊直虎ゆかりの地 60 宇津山城跡ー2 

 遺体は小池の坂上中野新田、今の富本町に埋葬した。13人分の塚があったと思いますが今は一塚だけです。近くの時習館高校辺りにあったという
井伊直虎ゆかりの地 60 宇津山城跡ー2 
 説明版がない 
井伊直虎ゆかりの地 60 宇津山城跡ー2 
「奉納大乗妙典 右大崎 左田原 天保7年申(1826)6月 日」供養塔と道標を兼ねている
 人質は妻または子供であった。形原の松平家広の妻は一人船で運ばれ形原城下の浜(井尾、稲生)で串刺しの刑になった。
 妻または子供は
 竹谷松平清善、野田菅沼定盈 、長篠菅沼貞景、作手奥平貞能、川路設楽貞通、五本松西郷正勝、形原松平家広、古宿北野藤兵衛、多米染田某、下条向井麦右衛門、嵩山奥山修理、大竹兵衛門、浅羽三太夫の妻または子供であった。
 
 町名の富本は十三本=とみもと、からの地名と記したものもある。
 
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Posted by エル at 11:08
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