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2024年10月05日

天草四郎の最期・中日新聞に

 中日新聞4日夕刊に「天草四郎の最期記す」の見出しで島原の乱直後の書状見つかる、の記事が記載されていた。
 新聞を定期購読される方が少ないとか、参考までに記載します。
 <中日新聞10月4日夕刊記事>
天草四郎の最期・中日新聞に
 熊本藩主・細川忠利が島原の乱で天草四郎の立て籠もる原城を攻め落とした時の様子を豊後日出藩3万石(大分県日出町・ぶんごひじはん)・木下延俊宛ての書状。
 それによると、落城(1638年2月28日)2日後の3月1日付で原城に乗り込み細川勢が四郎の家を火矢で焼き、四郎が出て来た所を「神野佐左衛門が首を取った」とあり、神野は雑兵とみられる、とあります。
 木下家と言えば豊臣家を思い出しますが豊臣秀吉の妻・北政所の兄、木下家定の3男、秀吉の死後は家康側に付き関ケ原戦では東軍に加勢したそうで家康から所領をいただき小藩ながら領主なった。木下家を名乗る藩は2家あるそうです。幕末まで続いたそうです。
 





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Posted by エル at 17:24
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