2015年10月09日
諏訪家の末裔が
設楽町の図書館で私にとって興味深い本を読みました。田口の住人にて町要職も勤められた方の自史伝誌に書かれていた先祖は諏訪刑部大輔安芸守頼繁(すわぎょうぶだゆうあきのかみよりしげ)の後裔であるということです。
諏訪の城主・諏訪頼繁(重)は武田信玄に下入るように誘いがあったが同意しなかった。家臣の板垣信形の勧めで信玄の妹を妻に迎え和睦した。

↑福田寺から東の田口街並を見る、赤⇒設楽庁舎 黑⇒鹿島山
信玄から甲府へ来るよう再三話があったが断っていたが断り切れず甲州に出向くと捕えられ殺害された。
頼繁は甲州へ行く時に家臣・伊藤新九郎頼喜(よりよし)に「妾が身ごもっている、生まれた子は養子にして育てよ」と遺言していた。
頼喜は生まれた子に新九郎重通(しげゆき)と名付け養子にした。

↑ 国道257号線の田口街並
諏訪家は武田信玄により滅亡したが頼繁の息女14歳は信玄の妾になり勝頼を生むことになる。
その後、新九郎頼喜は今の田口に住み代々続いた。
延宝のころ(1673~1681)庄屋をしていたが凶作のため年貢を上納できず宮崎代官に延期を申し入れたが「全財産を売ってでも上納せよ」と命令がきた。相談を受けた他の庄屋が52ヵ村中37ヶ村連合して宮崎太郎左衛門代官を幕府に訴えた。3年後宮崎代官は切腹、村はお咎めなしだった。
此の事件は北設楽郡史(昭和45年発行)に「延宝越訴」として書かれている。
「越訴・おつそ」とは正式な訴えを書類で提出しても途中で役人が握りつぶす事があるから直接領主、幕府へ訴えること。
延宝元年(1673)52ヵ村が三州代官から信州伊那郡駒場陣屋・旗本宮崎太郎左衛門(230石)の御預所となった。
宮崎の政務は粗略にて部下任せ、手代松井甚右衛門、小川次太夫はこれをよい事に私欲にはしり両手代は気に入り庄屋と結託し江戸廻り米に当り往復日数費用を欠代として村々に割賦徴収、連年に及んだ。非分な年貢徴収、賄賂による検地左右、鹿狩りと称して遊楽数十日女を蓄えたり、昼夜をとわず些細な事でも庄屋を呼びつける、出頭すると所用と称して引き合わない。あまりの事に駒場陣屋へ訴えにいくと手代両名先回りして代官に取り次がない、揚句に座敷牢に閉じ込めた。
延宝8年11月(1680)28日農民代表数名江戸表へ越訴に向かうが黑瀬で手代伴伝兵衛が追い着き妥協案を示し引き止めたが一蹴し12月江戸表へ訴えた。翌年5月、将軍御代替りにて廻村中の御国廻行に訴状を提出。3年めに結審、非分明白となり手代は罷免となった。
代官宮崎は判決を待たず武士らしく切腹した、家督は子三郎兵衛に譲ったが公儀御年貢金を父祖以来数十年間「金1万2百両引負上納成り難き」貞享3年(1718)三郎兵衛とその子万之助供に流罪、家は絶えた、とありました。
弱そうな農民ですが実際は強いのが農民ですね。
貧乏そうですが結構小銭を稼いでいた者もいたようです。
諏訪の城主・諏訪頼繁(重)は武田信玄に下入るように誘いがあったが同意しなかった。家臣の板垣信形の勧めで信玄の妹を妻に迎え和睦した。
↑福田寺から東の田口街並を見る、赤⇒設楽庁舎 黑⇒鹿島山
信玄から甲府へ来るよう再三話があったが断っていたが断り切れず甲州に出向くと捕えられ殺害された。
頼繁は甲州へ行く時に家臣・伊藤新九郎頼喜(よりよし)に「妾が身ごもっている、生まれた子は養子にして育てよ」と遺言していた。
頼喜は生まれた子に新九郎重通(しげゆき)と名付け養子にした。
↑ 国道257号線の田口街並
諏訪家は武田信玄により滅亡したが頼繁の息女14歳は信玄の妾になり勝頼を生むことになる。
その後、新九郎頼喜は今の田口に住み代々続いた。
延宝のころ(1673~1681)庄屋をしていたが凶作のため年貢を上納できず宮崎代官に延期を申し入れたが「全財産を売ってでも上納せよ」と命令がきた。相談を受けた他の庄屋が52ヵ村中37ヶ村連合して宮崎太郎左衛門代官を幕府に訴えた。3年後宮崎代官は切腹、村はお咎めなしだった。
此の事件は北設楽郡史(昭和45年発行)に「延宝越訴」として書かれている。
「越訴・おつそ」とは正式な訴えを書類で提出しても途中で役人が握りつぶす事があるから直接領主、幕府へ訴えること。
延宝元年(1673)52ヵ村が三州代官から信州伊那郡駒場陣屋・旗本宮崎太郎左衛門(230石)の御預所となった。
宮崎の政務は粗略にて部下任せ、手代松井甚右衛門、小川次太夫はこれをよい事に私欲にはしり両手代は気に入り庄屋と結託し江戸廻り米に当り往復日数費用を欠代として村々に割賦徴収、連年に及んだ。非分な年貢徴収、賄賂による検地左右、鹿狩りと称して遊楽数十日女を蓄えたり、昼夜をとわず些細な事でも庄屋を呼びつける、出頭すると所用と称して引き合わない。あまりの事に駒場陣屋へ訴えにいくと手代両名先回りして代官に取り次がない、揚句に座敷牢に閉じ込めた。
延宝8年11月(1680)28日農民代表数名江戸表へ越訴に向かうが黑瀬で手代伴伝兵衛が追い着き妥協案を示し引き止めたが一蹴し12月江戸表へ訴えた。翌年5月、将軍御代替りにて廻村中の御国廻行に訴状を提出。3年めに結審、非分明白となり手代は罷免となった。
代官宮崎は判決を待たず武士らしく切腹した、家督は子三郎兵衛に譲ったが公儀御年貢金を父祖以来数十年間「金1万2百両引負上納成り難き」貞享3年(1718)三郎兵衛とその子万之助供に流罪、家は絶えた、とありました。
弱そうな農民ですが実際は強いのが農民ですね。
貧乏そうですが結構小銭を稼いでいた者もいたようです。