2016年09月15日
鏡は何処にある? 橘逸勢の墓
豊橋市から国道362号線を本坂トンネルを抜け静岡県浜松市北区三ヶ日町に入り下っていくとこの看板が見える
橘逸勢(たちばなはやなり)神社とあります。只木公家塚にも「橘逸勢墓説、花山院長親説」があり気になってよってみる。
国道から見る
橘逸勢とは? 平安初期の官人能書家で嵯峨天皇、空海(弘法大師)と共に日本の三筆と讃えられ隷書は巧みであった。
建暦23年(804)遣唐使として空海らと中国へ渡り、橘秀才といわれたそうです。
中国西安の文字のある碑
帰国後、官職に付いたが承和9年(842)朝廷の後継者争いに係わったとして伊豆へ流される途中、近くの板築駅(ほうずきうま)で病死、娘の妙が付いて来て庵に祀った。
9年後、嘉祥3年(850)罪を許され遺骨を京へ、代わりに逸勢愛用の鏡を埋めた。
文政4年(1821)発掘すると説ごとく漢式四獣鏡が出た
ところが埋めた漢式四神獣鏡が江戸末期に盗掘され無くなった。庄屋竹平氏が探しだし買い取ったがまた、大正末期に盗まれその後不明になった。
橘逸勢朝臣伝等碑が多く建っている。
この時、空海は途中で帰国したので京へ入れなかった。
各地を回っていたことから伝説が残っている?
勝手な空想ですが・・・
橘逸勢(たちばなはやなり)神社とあります。只木公家塚にも「橘逸勢墓説、花山院長親説」があり気になってよってみる。
国道から見る
橘逸勢とは? 平安初期の官人能書家で嵯峨天皇、空海(弘法大師)と共に日本の三筆と讃えられ隷書は巧みであった。
建暦23年(804)遣唐使として空海らと中国へ渡り、橘秀才といわれたそうです。
中国西安の文字のある碑
帰国後、官職に付いたが承和9年(842)朝廷の後継者争いに係わったとして伊豆へ流される途中、近くの板築駅(ほうずきうま)で病死、娘の妙が付いて来て庵に祀った。
9年後、嘉祥3年(850)罪を許され遺骨を京へ、代わりに逸勢愛用の鏡を埋めた。
文政4年(1821)発掘すると説ごとく漢式四獣鏡が出た
ところが埋めた漢式四神獣鏡が江戸末期に盗掘され無くなった。庄屋竹平氏が探しだし買い取ったがまた、大正末期に盗まれその後不明になった。
橘逸勢朝臣伝等碑が多く建っている。
この時、空海は途中で帰国したので京へ入れなかった。
各地を回っていたことから伝説が残っている?
勝手な空想ですが・・・