2017年11月13日
盗賊の墓は? 八百三十八両盗む
数年前に新城街中を探索中に伺った話です。
「昔、鉈屋(なたや)さんに泥棒が入って何百両か盗まれたそうな、窃盗犯は捕まり死罪になり墓がJR飯田線の脇にあった」そのことを薬局の先代が書いたのを読んだことがあるという。詳しく伺うと「裏野の印刷屋さんがあった路地を北へ行き踏切を渡った辺りと書いてあった、今は有るかしらない」とのこと。
裏野の印刷屋と言えばM印刷さんだがいまはない、その先の踏切はある。

城北踏切とある、昔からの道だ
さて、踏切周りを探すが墓石らしき物は見当たらない。

飯田線北側は区画整理されている、昔道は踏切まであるが踏切を渡ると整理され広い道路と宅地になっている。
近くの方に伺うと「石墓は見た事ない」と言い、「この踏切は焼場踏切と言っていたそうで、この先に火葬場があったらしい」という。
線路脇を歩くがそれらしい石物はない、どこかへ移転したのか?
北に約150m先に墓所がある、この中に移転したのだろうか?
こうなると、このことを書いた薬局さんに聞けば分かるかも、と訪ねる。
M薬局さんにて伺うと先代が書いた本を見せて頂き内容を簡略すると
51 盗賊 遠州無宿峰蔵
子供のころに聞いた話として
明治維新から16年ほど前に峰蔵が鉈屋に忍びこみ百何十両かを盗んだ、橋向の番太、小平に捕まり討ち首になった。その墓と云われる物が線路の脇にありMさんが調べた時は高さ50㌢、幅22㌢、中央に南無阿弥陀仏、両側に貞亰(じょうきょう)三年(1686)寅五月二十二日と彫ってあってこれは年号からも峰蔵の墓とはまったく違いと分かった。
当時の事を書いた「勤方胆覚帳」に「嘉永五年(1852)七月五日、遠州無宿峰蔵、盗んだ金額八百三十八両也、七月五日捕えられたが藩の(誰かが亡くなり)服喪中だったので八月七日から吟味した。十一月十四日峰蔵死罪と決ったが御上様の御年忌につき牢屋に繋いだ。嘉永六年正月二日夜、峰蔵、格子を焼き逃走、近郊遠州まで探し十二日に捕獲した。二月二十日評議し再び死罪と決定して二十二日片山村で多くの役人出役、鳥原村番人、徳衛門が討ち首いたし候。墓碑年号から二百二十年も違うことから線路脇の墓は全く別物である。
Mさんは盗金額が八百三十八両と多額重いことから役所の寛永五年御用留帳を調べると
所持の金子 員数通り
1分判、金五十両一包 二朱金、金百両一包
小判、金二百両一包 ・・・・・
一分半金五十三両三分袋入など
明細記入あり 計 八百三十七両三分 他に金2分
とあったことから事件は間違いなくあった、峰蔵の墓と云われる物が間違いであった。
当時は銀行がなかったから大金を所持することはドロボウ想定しないと。
8℃ → 19℃ 晴れ時々曇り
「昔、鉈屋(なたや)さんに泥棒が入って何百両か盗まれたそうな、窃盗犯は捕まり死罪になり墓がJR飯田線の脇にあった」そのことを薬局の先代が書いたのを読んだことがあるという。詳しく伺うと「裏野の印刷屋さんがあった路地を北へ行き踏切を渡った辺りと書いてあった、今は有るかしらない」とのこと。
裏野の印刷屋と言えばM印刷さんだがいまはない、その先の踏切はある。
城北踏切とある、昔からの道だ
さて、踏切周りを探すが墓石らしき物は見当たらない。
飯田線北側は区画整理されている、昔道は踏切まであるが踏切を渡ると整理され広い道路と宅地になっている。
近くの方に伺うと「石墓は見た事ない」と言い、「この踏切は焼場踏切と言っていたそうで、この先に火葬場があったらしい」という。
線路脇を歩くがそれらしい石物はない、どこかへ移転したのか?
北に約150m先に墓所がある、この中に移転したのだろうか?
こうなると、このことを書いた薬局さんに聞けば分かるかも、と訪ねる。
M薬局さんにて伺うと先代が書いた本を見せて頂き内容を簡略すると
51 盗賊 遠州無宿峰蔵
子供のころに聞いた話として
明治維新から16年ほど前に峰蔵が鉈屋に忍びこみ百何十両かを盗んだ、橋向の番太、小平に捕まり討ち首になった。その墓と云われる物が線路の脇にありMさんが調べた時は高さ50㌢、幅22㌢、中央に南無阿弥陀仏、両側に貞亰(じょうきょう)三年(1686)寅五月二十二日と彫ってあってこれは年号からも峰蔵の墓とはまったく違いと分かった。
当時の事を書いた「勤方胆覚帳」に「嘉永五年(1852)七月五日、遠州無宿峰蔵、盗んだ金額八百三十八両也、七月五日捕えられたが藩の(誰かが亡くなり)服喪中だったので八月七日から吟味した。十一月十四日峰蔵死罪と決ったが御上様の御年忌につき牢屋に繋いだ。嘉永六年正月二日夜、峰蔵、格子を焼き逃走、近郊遠州まで探し十二日に捕獲した。二月二十日評議し再び死罪と決定して二十二日片山村で多くの役人出役、鳥原村番人、徳衛門が討ち首いたし候。墓碑年号から二百二十年も違うことから線路脇の墓は全く別物である。
Mさんは盗金額が八百三十八両と多額重いことから役所の寛永五年御用留帳を調べると
所持の金子 員数通り
1分判、金五十両一包 二朱金、金百両一包
小判、金二百両一包 ・・・・・
一分半金五十三両三分袋入など
明細記入あり 計 八百三十七両三分 他に金2分
とあったことから事件は間違いなくあった、峰蔵の墓と云われる物が間違いであった。
当時は銀行がなかったから大金を所持することはドロボウ想定しないと。
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