QRコード
QRCODE
アクセスカウンタ
読者登録
メールアドレスを入力して登録する事で、このブログの新着エントリーをメールでお届けいたします。解除は→こちら
現在の読者数 38人
プロフィール
エル
エル
生まれ育った地域のこと、訪ねて聴いて写真に撮って・・・
歴史 伝説 その他

2018年02月07日

吉田藩 松平伊豆守家

 先日開かれた長篠城址歴史保存館の講座にて「松平伊豆守と島原」と題して豊橋市二川本陣資料館の学芸員・久住様のお話しがありました。
松平伊豆守家は吉田藩を8代160年間治める
吉田藩 松平伊豆守家
 吉田城址

 松平伊豆守家は松平と名乗っている事から家康の松平家の分家かと思っていましたが「大河内松平」と書かれているように元は摂津源氏頼政の後裔(こうえい)といいます。室町時代に以仁王(もちひとおう)の平氏討伐に加担したが失敗し一族討たれる。源兼綱の子・顕綱は母と三河国額田郡大河内郷に落ち住し大河内と称したと云います。(今の岡崎市大平町大河内、東名岡崎インター付近)足利義氏が三河守護職に着くと顕綱は被官し属下の吉良氏の家老になる。足利義昭没落後、家康に属した。天正15年(1587)秀綱の次男・正綱が家康の命で長沢松平家庶流、伯父の松平正次に養子になる。しかし、正次に実子が生まれたため分家するが松平姓を名乗った。*《次のように書いた物もあります、松平正綱に跡継ぎがいなかったのか兄の大河内久綱の子、信綱を養子にする》信綱は3代将軍・徳川家光の小姓になり才能を発揮し忍城3万石、川越藩6万石と加増される。家光の将軍宣下に従い上洛し「従五位下伊豆守」を任官して代々伊豆守を名乗る。
 逸話として、本名の大河内では徳川家の近習を勤めるのは難しい。松平家の養子になり松平を名乗れば徳川家御側近くで奉公が叶うと思ったという。大河内家が考えた事か?
明治初めの吉田城
吉田藩 松平伊豆守家
城址展示写真から
 話が前後しますが信綱は
 慶長元年(1596)生まれ(諸説有り)
 慶長6年(1601)伯父松平正綱の養子になる、大河内から松平に(5歳)
 慶長9年(1604)家光の小姓になる(8歳) 
 元和6年(1620)養父に実子が生まれる。分家して松平信綱と(正永から)名乗る。
 元和9年(1623)家光上洛、従五位下伊豆守(27歳)
 寛永4年(1627)8千石増加され1万石の大名
 寛永10年(1633)老中奉書加判(将軍命令を伝え印書係)忍城主
 寛永14年(1637)島原の乱起こる
 キリシタン一揆と言われ簡単に鎮圧できると思っていたが治まらず信綱総大将として九州へ家臣を伴い出兵した。
 松平伊豆守家初代・信綱、2代・輝綱(川越藩主)、共に九州へ行く。
 この時従った家臣の記録した「九州一揆有馬城攻之覚」「九州へ御供仕候者之覚」などが書き残しているという。
 翌年乱鎮圧する。
  
 どんな事が書かれているのでしょう。
 
 そう言えば「長州成敗の事」と書いた物が家にあった。


 ー3℃ → 6℃ 晴れ


同じカテゴリー(歴史)の記事画像
 探偵作家・大阪圭吉   
貴重な本を・・・ありがとうございます
粕谷磯丸の事 3
糟谷磯丸の事
磯丸さんの事
千葉県の一鍬田
同じカテゴリー(歴史)の記事
  探偵作家・大阪圭吉    (2025-05-21 16:55)
 貴重な本を・・・ありがとうございます (2025-05-15 16:40)
 粕谷磯丸の事 3 (2025-04-27 14:14)
 糟谷磯丸の事 (2025-04-24 13:05)
 磯丸さんの事 (2025-04-23 22:56)
 千葉県の一鍬田 (2025-03-31 08:00)

Posted by エル at 13:41
Comments(0)歴史伝説
上の画像に書かれている文字を入力して下さい
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。