2018年09月25日
深溝松平家、菩提寺を訪ねる で、はどうであったか
長沢松平家同様に松平宗家徳川幕府を支えた深溝(ふこうず)松平家の墓所、曹洞宗瑞雲山 本光寺(愛知県額田郡幸田町深溝字内山17)を訪ねてたのです。墓石になる石造社殿、献燈籠が多く建ち一般の墓所とは違った雰囲気を醸し出している。長沢松平家同様に松平3代信光(家康6代前)の子・忠景、その次男・忠定らが大場主膳の深溝城を攻め取り深溝松平家の祖になった。本光寺に初代忠定を享禄4年(1531)に没した時、本光寺に葬った事から深溝松平家菩提寺になった。
境内図 東御廟所 西御廟所に分かれている
2代好景(よしかげ)は吉良義昭との戦いで深追いしすぎ全員戦死、44歳だった(善明堤の戦い、鎧ヶ淵古戦場)。
3代伊忠(これただ)は長篠城合戦では酒井忠次の武田軍鳶が巣山砦奇襲隊に属し活躍、砦を落し寒狭川を渡り武田軍を追撃したが深追いしすぎ退却中の小山田隊に反撃され戦死、39才だった。父親と同じ運命を辿った。
新城市有海国道257号線脇に戦死地石碑がある。
長篠城合戦では城主で戦死したのは伊忠だけだった。
4代家忠も鳶が巣山奇襲隊に属していたが別行動隊だったので無事だった。天正18年(1590)徳川家康が関東へ国替えになると同行し無彩忍城(埼玉県行田市)1万石を賜った。家忠の書いた日記「家忠日記}はゆうめいです。
他家と同様おおくの国替えがあった。
城主が亡くなると、どんなに遠方の城主であっても
この地本光寺に弔った、だから墓碑が多いのですね。
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3代伊忠(これただ)は長篠城合戦では酒井忠次の武田軍鳶が巣山砦奇襲隊に属し活躍、砦を落し寒狭川を渡り武田軍を追撃したが深追いしすぎ退却中の小山田隊に反撃され戦死、39才だった。父親と同じ運命を辿った。
新城市有海国道257号線脇に戦死地石碑がある。
長篠城合戦では城主で戦死したのは伊忠だけだった。
4代家忠も鳶が巣山奇襲隊に属していたが別行動隊だったので無事だった。天正18年(1590)徳川家康が関東へ国替えになると同行し無彩忍城(埼玉県行田市)1万石を賜った。家忠の書いた日記「家忠日記}はゆうめいです。
他家と同様おおくの国替えがあった。
城主が亡くなると、どんなに遠方の城主であっても
この地本光寺に弔った、だから墓碑が多いのですね。
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