2019年12月26日
松阪城址を訪ねて その後の蒲生氏は
三重県松坂市の松坂城祉を訪ねたんです。蒲生氏郷(がもううじさと)が天正12年(1584)伊勢松ヶ島12万石で治め、天正16年松坂城築いたそうです。蒲生氏は藤原北家・秀郷を祖として近江国蒲生郡若松から蒲生家と称したようです。
父・秀郷が織田信長に仕えるが人質として氏郷が預けられる。氏郷は才能を信長に認められ烏帽子親を信長が務める。信長の次女・冬姫を娶る、長篠合戦等で軍功をあげるが本能寺の変で信長は自刃すると豊臣秀吉に仕える。小牧長久手戦いで手柄をたて天正12年(1584)伊勢松ヶ島12万石を賜り、その後、天正16年(1588)四五百森(よいほのもり)に平山の城、松坂城を築く。
城入り口

縄張り


石垣

小田原城の北条氏を攻めに参加、小田原城落城後、北条氏と同盟していた奥州伊達家の会津領地を取り上げ其処に蒲生氏郷が移封42万石になる。伊達家の監視と秀吉が氏郷の才能を恐れて遠方に移動させたとも云われている。会津では近江から商工人を移し街造り自由取引の楽市楽座を勧め今の会津若松の経済基礎を築いたと言われている。石高も92万石になったという。郷里の蒲生郡若松から黒川地名を会津若松に改名、城を氏郷の幼名・鶴千代から鶴ヶ城と呼ぶようになった。
氏郷40歳の時、文禄4年(1594)京都にて病で死亡する、秀吉は信長の次女・冬姫を京に住まわせようとするが出家尼になった。嫡男が継ぐが宇都宮18万石に移封、嫡男30歳で死亡、その子が継ぐが25歳で死亡、ここで蒲生家は改易になった。

天守台

天守台に上がる石段

窪みがある 女性が案内書を持って詳しく見ていたので声をかけると「石棺のようですね」という。

「母が姫路で城の勉強をしていた、転勤で松坂にきた、私は勉強中」という
松坂市を見渡す

長屋に見える建物 城番屋敷、今も使われているそうな
蒲生家が松坂城を出た後の城主は服部家、古田家と代わるが徳川頼宣が和歌山藩主になると和歌山藩領となり明治維新まで城代が置かれた。正保元年(1644)の台風で三層天守は崩壊した。
頂いた資料が無いに等しく詳しく分からなかった。
25日 6.5℃ - 17℃ 晴れ
26日 6℃ - 16℃ 曇り夕刻から小雨 0.5mm
27日 10℃ - 13℃ 晴れ かぜ
父・秀郷が織田信長に仕えるが人質として氏郷が預けられる。氏郷は才能を信長に認められ烏帽子親を信長が務める。信長の次女・冬姫を娶る、長篠合戦等で軍功をあげるが本能寺の変で信長は自刃すると豊臣秀吉に仕える。小牧長久手戦いで手柄をたて天正12年(1584)伊勢松ヶ島12万石を賜り、その後、天正16年(1588)四五百森(よいほのもり)に平山の城、松坂城を築く。
城入り口
縄張り
石垣
小田原城の北条氏を攻めに参加、小田原城落城後、北条氏と同盟していた奥州伊達家の会津領地を取り上げ其処に蒲生氏郷が移封42万石になる。伊達家の監視と秀吉が氏郷の才能を恐れて遠方に移動させたとも云われている。会津では近江から商工人を移し街造り自由取引の楽市楽座を勧め今の会津若松の経済基礎を築いたと言われている。石高も92万石になったという。郷里の蒲生郡若松から黒川地名を会津若松に改名、城を氏郷の幼名・鶴千代から鶴ヶ城と呼ぶようになった。
氏郷40歳の時、文禄4年(1594)京都にて病で死亡する、秀吉は信長の次女・冬姫を京に住まわせようとするが出家尼になった。嫡男が継ぐが宇都宮18万石に移封、嫡男30歳で死亡、その子が継ぐが25歳で死亡、ここで蒲生家は改易になった。
天守台
天守台に上がる石段
窪みがある 女性が案内書を持って詳しく見ていたので声をかけると「石棺のようですね」という。
「母が姫路で城の勉強をしていた、転勤で松坂にきた、私は勉強中」という
松坂市を見渡す
長屋に見える建物 城番屋敷、今も使われているそうな
蒲生家が松坂城を出た後の城主は服部家、古田家と代わるが徳川頼宣が和歌山藩主になると和歌山藩領となり明治維新まで城代が置かれた。正保元年(1644)の台風で三層天守は崩壊した。
頂いた資料が無いに等しく詳しく分からなかった。
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