2020年07月27日
吉田藩・大河内松平家
再建された吉田城、鉄櫓(くろがねやぐら)昭和29年
豊川右岸から観る
吉田藩城主になった大河内松平家、伊豆守を賜った信綱は前記したように大河内家の叔父が長沢松平家を継ぎ松平右衛門太夫正綱となると「大沢家では出世できない、松平家を名乗り出世したい」と叔父に頼み込み父親の許しを得て養子になる、慶長6年(1601)の事と言う。2代将軍秀忠の子、家光が生まれると小姓になり出世の糸口をつかみ才覚を発揮する。
500石、800石と家光の生長と共に側近とし家光を支え助言、家光の上洛に従い伊豆守を賜わり2千石、1万石、武蔵国忍3万石と成る。島原の乱では苦戦していた所、自ら大将になり兵糧攻めをして島原城を落城させ6万石に増加。キリシタン取締り、武家諸法度改正ポルトガル人追放、長崎出島を造り鎖国政策をするなど徳川幕府の基礎固めをし老中職を勤める。家光亡きあとも4代将軍家綱を補佐する。
寛文2年(1662年)病に倒れ3月16日老中職のまま死去、満65歳。家光は「我ほど果報物は無い、右手に酒井讃岐守忠勝と左手に知恵伊豆こと松平伊豆守信綱」と評価している。幕府に2人が大きく寄与している事がわかる。 長男の輝綱が継いだ。
湖西市本興寺の山門・吉田城から移築した
(延宝2年)
吉田藩初代は浜松城主、平松信祝(のぶとき)の子、松平信復(のぶなお)だった。信復(のぶなお)→信礼(のぶいや)→信明(のぶあきら)→信順(のぶより)→信宝(のぶたか)→信璋(のぶあき)→信古(のぶひさ)と続き幕末を迎える。信古は藩内が勤王と佐幕派に別れるが幕府に付き京へ、しかし徳川将軍が江戸へ帰ってしまうと信古も吉田へ帰り新政府に加担する。廃藩置県、吉田藩知事、豊橋県知事になり、子爵を賜る。松平から元の大河内に改姓する。信明は幕府改革に寄与し信綱の「知恵伊豆」から「小知恵伊豆」と言われたという。
吉田城大手門(説明書から)
女優の故大河内桃子さんは吉田藩大河内松平家の末裔だそうです。
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