2016年07月19日
井伊家ゆかりの地 尹良親王が座像を納めた
昭和15年5月12日(昭和6年と同月同日) 常福寺の本堂の屋根を改修中、屋根裏から大音響とともに厚い煤(すす)に覆われた僧形座姿の御尊像が落下した。
落下した仏像、木製であり。
宗良親王御尊像と云われる

説明書内の写真
像の背に約20㌢の彫り込みがあり、中から体内仏として青銅製の千手観音像と古文書が出てきた。
文章は大徳王寺の尊仁和尚が書き安易に見つからないように隠したとおもわれる。
長谷村の文化財冊子より

元中2年(1385)の秋、忠臣新田一族と供養する桃井・香坂・知久氏等と共に尊燈法親王を奉じて諏訪の大祝(おおほうり)家への余路に峠辺にて逆賊に襲われ遂に落命された。奉仕する数人の人が御遺体を大徳王寺へお護りしてこれらが賊に親王が薨去された事の知られるのを恐れ、内密に埋葬され大河原へ去っていった。
七年忌に当る六年後の元中八年(1391)、御子の尹良親王が当寺へ来て尊墓を築き法像を建立し、法華経を御墓地へ納め、宝塔を造立し、併せて病死した忠臣新田氏および殉死された一族の人々の菩提を弔うため、金二枚を上納し、桃井の里へお帰りになった。

親王は討たれ死亡となっているが大徳王寺の戦いは暦応3年(1340)6月と案内板にある、大徳王寺城の合戦には参加していない。親王は井伊谷で劣勢ながらも戦っていたようだ。
尊墓は御山の無縫塔であり新田一族の新田助成無縁亡霊等約六〇名の戒名が本堂内にあるという。
像の袈裟(けさ)は天台宗様式であり宗良親王は第一二〇代天台座主であったから尊澄法親王を偲んで彫刻されたようだ、と冊子に書かれている。
井伊谷宮は宗良親王薨去は元中二年八月一〇日、73歳説である。
大徳王寺は常福寺の前進であり大徳王寺城がどこか特定できなかったという。
広大な寺城あとです

落下した仏像、木製であり。
宗良親王御尊像と云われる
説明書内の写真
像の背に約20㌢の彫り込みがあり、中から体内仏として青銅製の千手観音像と古文書が出てきた。
文章は大徳王寺の尊仁和尚が書き安易に見つからないように隠したとおもわれる。
長谷村の文化財冊子より
元中2年(1385)の秋、忠臣新田一族と供養する桃井・香坂・知久氏等と共に尊燈法親王を奉じて諏訪の大祝(おおほうり)家への余路に峠辺にて逆賊に襲われ遂に落命された。奉仕する数人の人が御遺体を大徳王寺へお護りしてこれらが賊に親王が薨去された事の知られるのを恐れ、内密に埋葬され大河原へ去っていった。
七年忌に当る六年後の元中八年(1391)、御子の尹良親王が当寺へ来て尊墓を築き法像を建立し、法華経を御墓地へ納め、宝塔を造立し、併せて病死した忠臣新田氏および殉死された一族の人々の菩提を弔うため、金二枚を上納し、桃井の里へお帰りになった。
親王は討たれ死亡となっているが大徳王寺の戦いは暦応3年(1340)6月と案内板にある、大徳王寺城の合戦には参加していない。親王は井伊谷で劣勢ながらも戦っていたようだ。
尊墓は御山の無縫塔であり新田一族の新田助成無縁亡霊等約六〇名の戒名が本堂内にあるという。
像の袈裟(けさ)は天台宗様式であり宗良親王は第一二〇代天台座主であったから尊澄法親王を偲んで彫刻されたようだ、と冊子に書かれている。
井伊谷宮は宗良親王薨去は元中二年八月一〇日、73歳説である。
大徳王寺は常福寺の前進であり大徳王寺城がどこか特定できなかったという。
広大な寺城あとです
Posted by エル at 17:22
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