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2017年07月30日

井伊直虎ゆかりの地ー61 徳政令の事

永禄9年(1566)今川氏真は井伊谷周辺へ「徳政令」を出すが直虎は凍結していた。しかし今川家の氏真の領内統制衰からの無理難題を押し付けられ遂に直虎は永禄11年(1568)11月9日、関口氏軽と連名で井伊領に「徳政令」を発布した。
徳政令の書付 直虎の花押 (蜂前神社掲示より)
井伊直虎ゆかりの地ー61 徳政令の事
 徳政令
井伊直虎ゆかりの地ー61 徳政令の事
 祝田郷徳政之事
去寅年御判形顕被仰付候・・・・
 飛ばして
    仍如件
 関口氏軽と次郎直虎の署名、花押が記してある
徳政令、このことにより井伊領での井伊家内は今川方目付家老の力が強くなる。
 今川家の命を受け小野但馬守が井伊家に変わり井伊谷を納め直虎は地頭職を解かれ母親が暮らすら龍潭寺境内の松岳院へ身を寄せる。
 徳川家康は井伊谷の混乱を見ていたのか永禄11年(1568)12月井伊領へ侵攻して来る。一か月後のことである。 


 「徳政令」は鎌倉幕府が出したことで知られていますがそれは何故出したか、その結果はどうなったのでしょう。

文永の役 文永11年(1274)10月、南朝鮮高麗の合浦(ごうほ)を出航した元軍2万、高麗軍6千兵は対馬の守護・宗資国(そうすけくに)を殺し壱岐の守護代・平景隆も殺し両島の婦女子多くを殺傷し博多港に入った。大宰府を攻める。筑前守護・少式景資は北九州の御家人と迎え撃つ元軍(モンゴル軍)に劣勢だった。その時、大嵐が襲来、元軍の船は大損害受け退散した。
 大嵐は来なかった、武器の補給が間に合わないの説も・・
弘安の役建治元年(1275)フビライは特使・杜世忠(とせいちゅう)を日本に送ったが執権・北条時宗は鎌倉で使者を斬った。4年後にこのことがモンゴルに伝わると怒ったフビライは弘安4年(1281)正月、日本征伐令をだしモンゴル、漢人兵、4万の東路軍と南宋人10万の江南軍を準備する。東路軍は5月出航し対馬、壱岐を攻め6月には博多港に迫り沿岸を侵して壱岐に去った。江南軍は指揮大将の病気交代があって出航が遅れ合流地の平戸島(長崎)6月下旬に着く。7月下旬、肥前(佐賀県)伊万里港口の鷹島近くにモンゴル軍は集結し本攻撃準備をしていた。8月1日から大暴風になりモンゴル軍は大損害を受けた。日本軍はモンゴル軍を攻め7~8割を失ったモンゴル軍は高麗へと引上げた。

 2度のモンゴル軍襲来に暴風雨のお蔭で形は勝利したようにみえるが戦費調達警備に御家人は大変な出費になり、質入れ、土地の売却をする御家人が続出する。相手がモンゴルでは土地の分配、戦利品もない状態では御家人の不満が爆発しかねない。幕府は困った。
 御家人から脱落する者が多くなったことから鎌倉幕府北條氏は永仁5年(1297)御家人救済、負債を全て消滅させ、なくした所領を無償で戻す「徳政令」を出した。徳政令は一時的には御家人を救ったが経済は混乱し次の融資を断られ益々苦しくなり、貸した者が損をする徳政令は政治の混乱にもなった。天皇即位問題から世は乱れだし、徳政令と相成って鎌倉幕府の衰退へと続いたことも一因のようです。
 


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Posted by エル at 15:26
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