2017年12月24日
松平軍が境目城へ 遠江国吉美(湖西市)
湖西市探索中に境目城祉の話を聞いて、境目の名にどんな所か興味を持った。家康の側室「於万の方」(結城秀康の母)の件で訪れた豊田家のお話しからの情報を元に市教育委員会を訪ねましたが豊田家の事を書いた物は得られず 、後日関連資料が視つかれば連絡頂ける話になった。
早速、メールで頂きましたが、やはり豊田家の資料は少ないようです。境目城祉の事が書かれた資料を頂きました。
境目城は三河国と遠江国を境に築城したもので三河国松平氏を意識して建てた。
境目城は永禄3年(1560)今川義元が桶狭間で討死にすると今川氏支配の三河国は松平氏(徳川氏)支配になった。三河から進攻して来ることを想定し今川氏真は国境に永禄10年(1567)城を築き曳馬城(浜松市)、宇津山城(湖西市入出)の補助城にしたようです。
永禄11年(1568)12月13日,吉美郷士を味方に早朝一擧に攻めた松平家臣酒井忠次軍によってあっ気なく落城した。三河野田城主菅沼家譜に白須賀城の事は書かれているが境目城の事は記してない。白須賀城=境目城ではないかと疑問視する郷土史家もいるようです。古文書には書かれているが何処か?また、城には浜松加勢(軍議のためか)のため城中無人也・・とある。
城址を訪ねると、さて 何処かな?と言う感じ、近くの妙立寺(みょうりょうじ)の事を伺っていましたから妙立寺へ行く。寺の駐車場にて境目城を伺うと約100m先の「あそこの藪の中」と駐車場北西眼下に樹木に覆われた小高い所をいう。
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この奥 道標、開山日什聖人御旧跡入口
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延兼山妙立寺奥ノ院拝殿
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燈籠は大正八年三月十二日建之 とある
妙立寺奥ノ院
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日什聖人旧蹟碑 大正八年二月月二十八日建之
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右奥に奥ノ院の標柱がある 正面に開山日什聖人御庵室舊跡とある、年号なし
竹が被い歩くのも大変
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墓石が転がっている
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安政四年 寛政六年と読めた
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ここは元、妙立寺があったが今川氏真が松平氏侵攻に備えて永禄9年7月11日「妙立寺改替之事」判物を下し寺を接収し移転させた。
氏真は寺に16貫15文を寄進し寺の安堵せしめる旨を銘記している。城の規模等は定かでなく明治19年東海道本線施設に路線設置に土を掘り出し城址は宅地、畑になり一部分が残っているが無に等しいという。
資料内の縄張り
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円形状の縄張り、田中城を思い出す
本格的な城造り時間がなかったと想われ城址よりも寺址です。
海抜15mと書いてあるが今の妙立寺の方が高台にあり城址のように視えた。
この後、宇津山城が陥落する。
境目城址
6℃ → 16℃ 晴れのち薄曇り
早速、メールで頂きましたが、やはり豊田家の資料は少ないようです。境目城祉の事が書かれた資料を頂きました。
境目城は三河国と遠江国を境に築城したもので三河国松平氏を意識して建てた。
境目城は永禄3年(1560)今川義元が桶狭間で討死にすると今川氏支配の三河国は松平氏(徳川氏)支配になった。三河から進攻して来ることを想定し今川氏真は国境に永禄10年(1567)城を築き曳馬城(浜松市)、宇津山城(湖西市入出)の補助城にしたようです。
永禄11年(1568)12月13日,吉美郷士を味方に早朝一擧に攻めた松平家臣酒井忠次軍によってあっ気なく落城した。三河野田城主菅沼家譜に白須賀城の事は書かれているが境目城の事は記してない。白須賀城=境目城ではないかと疑問視する郷土史家もいるようです。古文書には書かれているが何処か?また、城には浜松加勢(軍議のためか)のため城中無人也・・とある。
城址を訪ねると、さて 何処かな?と言う感じ、近くの妙立寺(みょうりょうじ)の事を伺っていましたから妙立寺へ行く。寺の駐車場にて境目城を伺うと約100m先の「あそこの藪の中」と駐車場北西眼下に樹木に覆われた小高い所をいう。
この奥 道標、開山日什聖人御旧跡入口
延兼山妙立寺奥ノ院拝殿
燈籠は大正八年三月十二日建之 とある
妙立寺奥ノ院
日什聖人旧蹟碑 大正八年二月月二十八日建之
右奥に奥ノ院の標柱がある 正面に開山日什聖人御庵室舊跡とある、年号なし
竹が被い歩くのも大変
墓石が転がっている
安政四年 寛政六年と読めた
ここは元、妙立寺があったが今川氏真が松平氏侵攻に備えて永禄9年7月11日「妙立寺改替之事」判物を下し寺を接収し移転させた。
氏真は寺に16貫15文を寄進し寺の安堵せしめる旨を銘記している。城の規模等は定かでなく明治19年東海道本線施設に路線設置に土を掘り出し城址は宅地、畑になり一部分が残っているが無に等しいという。
資料内の縄張り
円形状の縄張り、田中城を思い出す
本格的な城造り時間がなかったと想われ城址よりも寺址です。
海抜15mと書いてあるが今の妙立寺の方が高台にあり城址のように視えた。
この後、宇津山城が陥落する。
境目城址
6℃ → 16℃ 晴れのち薄曇り