2018年06月07日
奥平氏はなぜ作手に来たか?
作手の奥平氏は上野国甘楽郡(こうずけのくに、かんらごうり、かむらごうり)から親戚を頼って作手郷に来たと言います。甘楽の名は韓からの渡来人が多く住んでいたことから韓、から、から甘楽・かんらになった。
上野・こうずけも読めませんが、上毛野(かみつけぬ)、下毛野(しもつけぬ)と言っていたそうですが、大化改新で国名を二文字にする事になり「上野国・こうずけのくに}になったそうです。
村上天皇の具平(ともひら)親王の末裔、赤松則景が秩父(埼玉)に来て、その子孫が上野国甘楽郡奥平郷を治め奥平を名乗ったようです。
しかし、なぜか天授年間(1375~81)奥平定政と子の定家が貞俊を伴って上野から作手に移り住んだ。それは母方の親戚の山崎三郎左衛門を頼っての事という。上野国から移ったのは勢力争いがあった?南北朝時代の南朝方であったからか?定かでありません。
山崎家は今の作手高松に住して山崎家はなく「山崎高元の墓」として残っているという。

<新城市作手歴史民俗資料館内の写真>
一度訪れたいですね。
奥平郷は群馬県高崎市吉井町下奥平 です。
19℃ → 28.5℃ 晴れ
上野・こうずけも読めませんが、上毛野(かみつけぬ)、下毛野(しもつけぬ)と言っていたそうですが、大化改新で国名を二文字にする事になり「上野国・こうずけのくに}になったそうです。
村上天皇の具平(ともひら)親王の末裔、赤松則景が秩父(埼玉)に来て、その子孫が上野国甘楽郡奥平郷を治め奥平を名乗ったようです。
しかし、なぜか天授年間(1375~81)奥平定政と子の定家が貞俊を伴って上野から作手に移り住んだ。それは母方の親戚の山崎三郎左衛門を頼っての事という。上野国から移ったのは勢力争いがあった?南北朝時代の南朝方であったからか?定かでありません。
山崎家は今の作手高松に住して山崎家はなく「山崎高元の墓」として残っているという。
<新城市作手歴史民俗資料館内の写真>
一度訪れたいですね。
奥平郷は群馬県高崎市吉井町下奥平 です。
19℃ → 28.5℃ 晴れ