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2013年08月03日

御盆です・墓参り

 ♪清水港の・・・浪曲・旅ゆけば~「東海遊狭伝」や「正伝清水次郎長」などの出版本と浪曲師・2代目広沢虎造により有名になった「清水次郎長」。その子分「森の石松」は新城市富岡の生まれであると伝えられ墓もあります。

御盆です・墓参り

 八名小学校の近く、堀切で生まれ親は山本助治・母かな(作手大和田の生まれ)で名主も務めた家柄であった「山本家」だが石松が生まれたころは貧しい生活だった。再三火災に遭い最後の火災は火遊びが原因ではないかと言われている。近くの宅に「石松が屋根裏に泊り奉公に来ていた、力持ち、喧嘩で追われ逃げ隠れしていたと伝えられている」。火災で遠州森村の「森の五郎親分」に預けられたが清水次郎長に見込まれ清水一家にお世話になった。船上で「寿し食いねー」で有名な次郎長親分に代わり金毘羅詣でに行き、帰りに異母弟の居るに富岡に滞在し清水に帰る途中に金の貸し借りから都田村・都鳥吉兵衛一家と喧嘩、弟、サヨキチと掛け合いに行ったが切りあいになりサヨキチは逃げ隠れた。
 殺された石松の首を持って帰ったサヨキチは洞雲寺に埋葬を頼んだが檀家衆がヤクザ者と一緒の墓地はと難示、戒名墓石を建てない事で祀ったという。
 文久三年六月十七日 
  石松 37歳 
御盆です・墓参り
 墓石が建てられず自然石にした。

後日追加
 都鳥一家
 源八は都田新木で生まれた、火の玉源八と言われていたが殺された。
 吉兵衛、常吉、梅吉の3人子供がいた。新城鳳来寺まで賭場を張っていたといいます。石松は布橋の金吉と都鳥一家に小松村閻魔堂(浜北区道本)で殺されたと言います。
 
  

 






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Posted by エル at 23:59
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