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歴史 伝説 その他

2014年03月08日

長篠設楽原の戦い・見聞録 16

 家康もただ、見守っていたのではなく、浜松から船着山まで来たが武田軍の備えを見てここで戦っても三方原のこともある、勝ち目はないと判断して信長に加勢を願うことにした。尾張の信長へ使者、小栗大六を出したが出陣できないの返事、折り返し大六に援軍要請をしたが返事は同じだった。
 本丸を守った掘り
長篠設楽原の戦い・見聞録 16

  そこで、また小栗大六を呼び、「起請書(誓約書)に約束したように近江の城を攻め落し、若狭、姉川にも加勢した、今、出馬しないなら約束を破ったことになる、このままなら武田に遠州を与え武田に加勢し尾張を受け取ることで和睦して自ら先方として尾張へ攻め込む、武田と攻め込めば尾張は一日で奪うことができる」と言い、使者に出した。だが、この事ははっきり申さず、取り次ぎの矢部善七の返事如何によっては「家康様の心中は・・・」と伝えることと言った。家康としては武田か織田に属さないと生きていけない、武田が長篠城に釘付けの今、織田が頼りであった。矢部善七の返事はまたも「出馬されない」だった。そこで大六は家康の胸の内を申し伝え信長の返事を待った。
 その結果「信長様は後詰(ごずめ・援軍)する」の返事があり大六は岡崎に帰った。
 信長は5月13日に岐阜を出、熱田神宮により、14日参拝し15日に岡崎についた。

長篠城主奥平貞昌は評定で城中の食糧もあとわずか、城内の様子を家康に伝え応援を願うしかないと考え武勇水練達者を選ぼうとした。貞昌の一族、奥平次左衛門に城を脱出して飢餓を救う願うように命じたが承知しない、「城を出れば命が欲しくて出た、末代まで恥になり汚名をこうむることだ、御免あれ」という。「しかたない、多くの兵を死なすより、私一人が自害し敵に詫び、城兵の命を助けよう」と貞昌がいい、無念やる方なしと思った。と、一人の者が「この難儀、御使いを私が勤め申そう」と申し出た。驚いて見ると貞昌の家臣三州市田村(豊川市市田)産、鳥居強右衛門勝商(かつあき)38歳(36歳説あり)であった。「某(それがし)今宵城を抜け出し、煙をあげて合図しらす、後詰に織田徳川の二軍は二度(三度)、さらに徳川軍だけは一か所、両軍揃った時は二ヶ所などを取り決めた。貞昌から「堅固な城だから心配なし、玉薬多くあるが糧米乏しい、貞昌は切腹して城兵の命を助けようとしている、事は急を要す、即後詰を願いたい」との申し伝えだった。一人では心許しない、水練達者で物馴れした鈴木金七と二人で城を出ることになった。
 脱出した野牛廓西
長篠設楽原の戦い・見聞録 16
長篠設楽原の戦い・見聞録 16
 牛渕橋から見る

 脱出は鳥居一人説、鈴木と二人説また鈴木は織田徳川が設楽原に到着してから脱出したなど諸説が記されている。狼煙場も船着山、雁峰山説がある。
 鳥居は雑兵の身であり、評定に出席など出来ず意見を申す事など出来ない、重臣が協議して鳥居を指名したと推測することもできる。鈴木は地元川上村の生まれであり地理に詳しい、雑兵の鳥居より身分が上であり信用おける鈴木を同行させたとも言える。14日深夜丑の刻(午前2時ごろ・15日)野牛廓の不淨口(下肥・下水口)から急斜面を寒狭川へ降りた。
 野牛廓
長篠設楽原の戦い・見聞録 16
 野牛廓から寒狭川を見る
長篠設楽原の戦い・見聞録 16
 川原から20数㍍はある

 
  つづく






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Posted by エル at 17:17
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