2014年03月19日
長篠設楽原の戦い・見聞録 25
戦場地の民はどうしたか?
武田軍と織田徳川軍により戦地になることは民百姓にとって田畑は荒らされ、家は焼かれ命も危ぶまれることである。
安全な場に避難しなければならない。連吾川の民は出沢地区(すざわ)の奥、標高400mはある小屋久保(こやんくぼ)へ避難したという。
連吾川は約50~100mである。
雁峰林道に案内板があると聞き、行くとあった

道らしい道がないので沢を登る

約40分程で峰に出ると案内板があった

平坦な道を南に行くと小屋久保の案内板と石柱がある

標高約450mあり樹木が無ければ戦場が一望できる
後で分かりましたが林道に

作手、布里往来の古道があり沢を登らなくてもよかった。
案内があり、登ると

小屋久保の所に登り易い事が分かった。
今の勝楽寺(当時は松楽寺)は玖老勢地区椎平(しいだいら)へ避難したという。

地名の椎の木が群生していたという、家の周りに樫の木も多かったが枝を売ってしまった、枝がノリ養殖に使われていたのを前芝に貝拾いに行って大人に言われ知った、と70代の方の話。今は峰に椎、樫が残っている。


民家は5軒、いずれも勝楽寺の檀家だという。
砦のあった乗本地区は静岡県天竜の熊村に疎開した、戦いが終わっても帰らない人もいた。
つづく
私の想う小屋久保
武田軍と織田徳川軍により戦地になることは民百姓にとって田畑は荒らされ、家は焼かれ命も危ぶまれることである。
安全な場に避難しなければならない。連吾川の民は出沢地区(すざわ)の奥、標高400mはある小屋久保(こやんくぼ)へ避難したという。
連吾川は約50~100mである。
雁峰林道に案内板があると聞き、行くとあった
道らしい道がないので沢を登る
約40分程で峰に出ると案内板があった
平坦な道を南に行くと小屋久保の案内板と石柱がある
標高約450mあり樹木が無ければ戦場が一望できる
後で分かりましたが林道に
作手、布里往来の古道があり沢を登らなくてもよかった。
案内があり、登ると
小屋久保の所に登り易い事が分かった。
今の勝楽寺(当時は松楽寺)は玖老勢地区椎平(しいだいら)へ避難したという。
地名の椎の木が群生していたという、家の周りに樫の木も多かったが枝を売ってしまった、枝がノリ養殖に使われていたのを前芝に貝拾いに行って大人に言われ知った、と70代の方の話。今は峰に椎、樫が残っている。
民家は5軒、いずれも勝楽寺の檀家だという。
砦のあった乗本地区は静岡県天竜の熊村に疎開した、戦いが終わっても帰らない人もいた。
つづく
私の想う小屋久保