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歴史 伝説 その他

2014年04月22日

長篠設楽原の戦い・見聞録 50

 奇襲隊ー15

 中山砦 
 武田の五味与惣兵衛、名和、名和田、飯尾助友・祐国兄弟ら500余兵が守備。 
 久間山砦
 和気、大戸、倉賀野、原に野州浪人組ら約600余兵がいたという。
天神山から左に降りた松平家忠ら1250兵は家臣の岡田元次に「中山砦を攻撃したら合図の狼煙を挙げよ」と言い久間山、中山へ向かった。地蔵ノ本で久間山砦へ後から来た奥平貞能を将に松平康長ら兵350をもって向かわせ、「久間山砦は地形から攻め落す事は簡単でない、砦兵を牽制せよ、中山を征してから久間山の攻撃をする」と伝えた。
中山砦 赤⇒
長篠設楽原の戦い・見聞録 50
 新東名工事で削られた,黑⇒は久間山砦

 雨あがりの朝かけ中山砦攻撃に係わらず必至に防戦した砦軍は不意であり要害、防棚も破られたが奇襲隊の西郷勢と対峙した名和田勢は十数人を討ち取り奇襲隊も狼狽したという。
 設楽原の連合軍へ狼煙で中山砦攻撃合図をした岡田は即、中山砦攻撃に加わり、中神新八郎、朝比奈、石川らと大奮闘し多数の砦兵を討ち取った。兵藤蓮之助は飯尾助友を討ち、西郷勢の城所は名和田を討ち取り、奇襲の勢いに乗じ砦内は収拾できなくなった。劣勢になった砦兵の五味、飯尾祐国は設楽原の自軍に行こうと川、長走りを渡る。名和は鳶ヶ巣の軍に合流しようと数兵と船津まで行くと鳶ヶ巣はすでに落砦し鳶ヶ巣攻撃兵が向かってきたので長走りを渡り設楽原へ合流しようとしたが船津で戦死した。設楽原で戦死した説もある。
 飯尾は作手に逃れ子孫は分家し浜松曳馬に住したという。昭和の初め中山砦の址らしい物はなかった、長篠の物と云われる五輪敷基があったが飯尾、名和田の物か定かではない、子供の遊びなどで石碑もなくなりつつある。昭和5年2月、中山所有者が開墾した時、鎧の腐った物が沢山出たという。午前10時頃には中山砦は落ちたという。
 ところが、中山から西に約3㎞離れた、勝頼観戦地近く、八束穂藤谷に傳五味与三兵衛貞氏の墓がある。
長篠設楽原の戦い・見聞録 50
 中山から逃れたか、別人か?

 久間山砦
長篠設楽原の戦い・見聞録 50

 要害でなる砦に攻め難しと見た松平忠次は中山が落ちたので久間山砦に押し寄せ、下からは急壁で登り攻めは味方に損傷がでる、南は峰の狭い地形である。五砦を早く落して武田軍の背後攻撃をしたい、何か手立てはと考えていた所、午後になり南風が吹いてきたので市川口方向から火を放ち砦を火中に包んだ。和気は火中にて自害したという。
 和気喜兵衛宗勝の墓は新昌寺近くにある
長篠設楽原の戦い・見聞録 50
 久間山砦から西へ約900m離れている。
 大戸、倉賀野、原も北西の急壁を滑り逃れようとしたが包囲していた奇襲軍に討ち取られたが原は一人脱して信州浪合の郷里に帰ったという。又、豊田虎蔵に討ち取られたともいう。
 久間山砦の下
長篠設楽原の戦い・見聞録 50

 いろいろと諸説があります。

 予想図 
 黑⇒は長走り
長篠設楽原の戦い・見聞録 50
赤印は久間山砦 ピンクは中山砦
 青は鳶ヶ巣山砦 茶色は姥ヶ懐砦


つづく
 
 





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Posted by エル at 03:17
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