2014年05月10日
長篠設楽原の戦い・見聞録 58
屏風図の合戦ー8
三州長篠合戦記(阿部玄喜筆)や長篠日記(阿部四郎兵衛書)などには設楽原の戦いの事が書かれている。
連合軍右翼(連吾川下流)徳川方、本多忠勝・榊原康政・内藤正成・植村家政織田方石川数正・水野清久・池永・渡辺・大久保兄弟等々。
左翼は織田勢、佐久間信盛・滝川一益・丹羽長秀・羽柴秀吉・明智・五畿内衆・前田利家・福富・近江・寄合衆・公家方などで15段に備えていた。
大久保忠世は鉄砲上手な300人を選び、棚外10町(1町約109m)あまり出して敵を待った。屏風図を描かせた成瀬正一は武田方に属していた時があり武田の旗印、備えに詳しかったので大久保陣にいた。弟の大久保忠佐が「この戦いは我らの戦い、我らから戦いを始めるべき」と言い、兄も同意し伺いを立て許可を得た。大久保兄弟は徒歩で進んだ。武田の斥候(せっこう・偵察)が3騎来たので大弓に大矢で驚かせた所、矢の遠鳴りに逃げ去った。大久保兄弟は武田の山県昌景の備えに鉄砲を討ちかけ誘きだそうとした。山県も足軽で対していたが数度に及び遂に手勢与力を備え三千の兵で向かって来た。しかし、こちらの手を察してか直進攻撃せずに棚のない南側、川路村連吾橋下流から徳川軍の後へ廻って切り崩そうとした。
勝楽寺南、


だが、連吾橋から南は谷になり崖が急で通る事ができない天然の要害であるために仕方なく竹広村方向に返し徳川軍と直接激突することになった。

飯田線辺り、連吾川が深く落ちている

赤は大久保隊の陣石柱ある 黑線は崖
山県隊は押太鼓を打って鯨波(ときの声)をあげ棚を討ち破ろうと無体に攻めたてるが、これを待っていた大久保の300挺余の鉄砲が繰り返し繰り返し発射、山県の兵は約千人が倒れて行った。大久保忠世は金の揚羽蝶、弟・忠佐は浅黄色に黑餅を打った旗を差し兵を動かし働かせる様子はさすがに一軍の大将であった。各兵は互に詞(ことば、をかわし・名乗って)馬上で突き合い追いつ追われつ戦う事八、九度、その戦いの花々しさは言いようがなかった。大久保隊の戦いを高台観戦地から見た信長は「金の蝶と黑餅は誰なるぞ、士卒をまとめ駆け引きする、敵にピタリ付いて膏薬(こうやく)のようである」と大いに感心した。
家康物見台から見た連吾川下流、中央に国道151号

山県隊は数回の戦闘でも利なく、今度は徳川に掛かると見せ掛け横筋違いに兵を進め織田の佐久間信盛隊の棚に攻め行ったが待ち受けて

いた鉄砲が雨あられと打ち込まれ山県隊は大半が撃たれ人塚を築き血は流れ屍は山となり、引き退いて行ったという。徳川にいて武田に属していた者は鉄砲風に恐れ所詮は叶わずと「火ともし山」を目指し走り去った。
長篠日記には山県軍は千五百の兵で岡崎軍六千を棚内に追い込んだ。徳川の鉄砲500が入り替り立ち替り撃って来た。連吾川の東で大久保兄弟は名乗りあい山県隊の小菅」・広瀬・仁科と追いこみ追い出しを九度もしたが負傷して退却した。山県昌景は鞍の前輪を鉄砲で討ちぬかれて討ち死にしたので山県家来の志村光家が主の死骸を馬に乗せ退去した。
山県昌景が 討たれ落馬し志村が首を抱えて去るところの図

赤⇒が山県、赤く血が見える 黑⇒志村
田峯の豊田が鉄砲を打ち出そうとしている所に田峯家老の城所道寿が来て、山県が討死したから早々に退去せよと申したので足軽を引き連れ人燈山(ひとぼしやま)の山麓まで引き退いた。主を失った山県隊は崩れ始めた。
つづく
勝楽寺
三州長篠合戦記(阿部玄喜筆)や長篠日記(阿部四郎兵衛書)などには設楽原の戦いの事が書かれている。
連合軍右翼(連吾川下流)徳川方、本多忠勝・榊原康政・内藤正成・植村家政織田方石川数正・水野清久・池永・渡辺・大久保兄弟等々。
左翼は織田勢、佐久間信盛・滝川一益・丹羽長秀・羽柴秀吉・明智・五畿内衆・前田利家・福富・近江・寄合衆・公家方などで15段に備えていた。
大久保忠世は鉄砲上手な300人を選び、棚外10町(1町約109m)あまり出して敵を待った。屏風図を描かせた成瀬正一は武田方に属していた時があり武田の旗印、備えに詳しかったので大久保陣にいた。弟の大久保忠佐が「この戦いは我らの戦い、我らから戦いを始めるべき」と言い、兄も同意し伺いを立て許可を得た。大久保兄弟は徒歩で進んだ。武田の斥候(せっこう・偵察)が3騎来たので大弓に大矢で驚かせた所、矢の遠鳴りに逃げ去った。大久保兄弟は武田の山県昌景の備えに鉄砲を討ちかけ誘きだそうとした。山県も足軽で対していたが数度に及び遂に手勢与力を備え三千の兵で向かって来た。しかし、こちらの手を察してか直進攻撃せずに棚のない南側、川路村連吾橋下流から徳川軍の後へ廻って切り崩そうとした。
勝楽寺南、
だが、連吾橋から南は谷になり崖が急で通る事ができない天然の要害であるために仕方なく竹広村方向に返し徳川軍と直接激突することになった。
飯田線辺り、連吾川が深く落ちている
赤は大久保隊の陣石柱ある 黑線は崖
山県隊は押太鼓を打って鯨波(ときの声)をあげ棚を討ち破ろうと無体に攻めたてるが、これを待っていた大久保の300挺余の鉄砲が繰り返し繰り返し発射、山県の兵は約千人が倒れて行った。大久保忠世は金の揚羽蝶、弟・忠佐は浅黄色に黑餅を打った旗を差し兵を動かし働かせる様子はさすがに一軍の大将であった。各兵は互に詞(ことば、をかわし・名乗って)馬上で突き合い追いつ追われつ戦う事八、九度、その戦いの花々しさは言いようがなかった。大久保隊の戦いを高台観戦地から見た信長は「金の蝶と黑餅は誰なるぞ、士卒をまとめ駆け引きする、敵にピタリ付いて膏薬(こうやく)のようである」と大いに感心した。
家康物見台から見た連吾川下流、中央に国道151号
山県隊は数回の戦闘でも利なく、今度は徳川に掛かると見せ掛け横筋違いに兵を進め織田の佐久間信盛隊の棚に攻め行ったが待ち受けて
いた鉄砲が雨あられと打ち込まれ山県隊は大半が撃たれ人塚を築き血は流れ屍は山となり、引き退いて行ったという。徳川にいて武田に属していた者は鉄砲風に恐れ所詮は叶わずと「火ともし山」を目指し走り去った。
長篠日記には山県軍は千五百の兵で岡崎軍六千を棚内に追い込んだ。徳川の鉄砲500が入り替り立ち替り撃って来た。連吾川の東で大久保兄弟は名乗りあい山県隊の小菅」・広瀬・仁科と追いこみ追い出しを九度もしたが負傷して退却した。山県昌景は鞍の前輪を鉄砲で討ちぬかれて討ち死にしたので山県家来の志村光家が主の死骸を馬に乗せ退去した。
山県昌景が 討たれ落馬し志村が首を抱えて去るところの図
赤⇒が山県、赤く血が見える 黑⇒志村
田峯の豊田が鉄砲を打ち出そうとしている所に田峯家老の城所道寿が来て、山県が討死したから早々に退去せよと申したので足軽を引き連れ人燈山(ひとぼしやま)の山麓まで引き退いた。主を失った山県隊は崩れ始めた。
つづく
勝楽寺