2014年06月08日
長篠設楽原の戦い・見聞録 71
高坂源五郎昌澄の墓
金子藷山が戦いから32年過ぎた慶長12年(1607)この地を訪れ住民から合戦の言い伝えを聞いていた。川路字小川路に高坂源五郎昌澄の墓がある。

高坂家の家臣子孫が享保20年(1735)に訪れ屋根石碑を建てたという。
東には徳川軍の大久保兄弟の陣地址があり南には広瀬渡し」青石のある豊川に出る。

昌澄は長篠城を取り囲んで監視隊であったが酒井軍奇襲隊が砦を落し籠城兵と共に多勢に攻められ、これまでと覚悟して設楽原の勝頼本陣に向うが戦いは苦戦、死を覚悟していた昌澄は左翼の徳川軍の中に切り込んだ。連吾川を越え徳川の稲生次郎左衛門と互に槍を持って戦ったが昌澄は槍を捨てて稲生に討たれた、25歳であったという。


昌澄の移動
昌澄はあの、高坂弾正昌宣(こうさかまさのぶ・昌信の記もある)の嫡子であり、昌宣はこの戦いには参戦せず越後上杉勢に備えていたため名代として参戦していた。
父、高坂弾j正は3年後の天正6年52歳で病死した。
山県昌景墓と同じ所に高坂又八郎助宣の墓がある。

よく分からないが高坂一族の者か。
高坂昌澄の墓
金子藷山が戦いから32年過ぎた慶長12年(1607)この地を訪れ住民から合戦の言い伝えを聞いていた。川路字小川路に高坂源五郎昌澄の墓がある。
高坂家の家臣子孫が享保20年(1735)に訪れ屋根石碑を建てたという。
東には徳川軍の大久保兄弟の陣地址があり南には広瀬渡し」青石のある豊川に出る。
昌澄は長篠城を取り囲んで監視隊であったが酒井軍奇襲隊が砦を落し籠城兵と共に多勢に攻められ、これまでと覚悟して設楽原の勝頼本陣に向うが戦いは苦戦、死を覚悟していた昌澄は左翼の徳川軍の中に切り込んだ。連吾川を越え徳川の稲生次郎左衛門と互に槍を持って戦ったが昌澄は槍を捨てて稲生に討たれた、25歳であったという。
昌澄の移動
昌澄はあの、高坂弾正昌宣(こうさかまさのぶ・昌信の記もある)の嫡子であり、昌宣はこの戦いには参戦せず越後上杉勢に備えていたため名代として参戦していた。
父、高坂弾j正は3年後の天正6年52歳で病死した。
山県昌景墓と同じ所に高坂又八郎助宣の墓がある。
よく分からないが高坂一族の者か。
高坂昌澄の墓