2014年06月12日
長篠設楽原の戦い・見聞録 75
原隼人佐昌胤(はらはやとまさたね)の墓
信玄塚の近く、南の畑の中にある。


最初は長篠城の寒狭川右岸篠場野に軍を置き城攻めをしていた。決戦をきめ設楽原に軍を進め中軍を内藤昌豊軍と徳川軍と対峙していたと思われる。内藤と徳川本隊を攻撃するが徳川軍は勝頼を討たんと一直線に攻められ信玄原まで退却したが鉄砲に撃たれたという。
藷山が「比羅の松荒神」付近に土饅頭有小さい石に「原昌胤の墓」と記してあったという。
柹原明十氏が昭和11年に墓を確認した所、「大正3年に建てた碑の背に石祠があった」と書いている。


今でもあるがいつの物かは定かでない。

信玄塚から見る
昌胤討死後、長男昌治が家督継ぐが上州の戦いで深手を負い死す、次男貞胤が継ぎ、勝頼討たれ武田家滅亡すると一族は徳川・真田等に仕えたり、各地に生き今に栄えているという。
ただ、昌胤の子昌栄(まさひで)は大坂夏の陣でい行方不明になったという。
新城市一桑田に原家が昌胤の子孫と云う説もあるが同じ武田家の原与左衛門の説もある、古文書等は火災焼失し確認は出来ないという。
原昌胤の墓
つづく
信玄塚の近く、南の畑の中にある。
最初は長篠城の寒狭川右岸篠場野に軍を置き城攻めをしていた。決戦をきめ設楽原に軍を進め中軍を内藤昌豊軍と徳川軍と対峙していたと思われる。内藤と徳川本隊を攻撃するが徳川軍は勝頼を討たんと一直線に攻められ信玄原まで退却したが鉄砲に撃たれたという。
藷山が「比羅の松荒神」付近に土饅頭有小さい石に「原昌胤の墓」と記してあったという。
柹原明十氏が昭和11年に墓を確認した所、「大正3年に建てた碑の背に石祠があった」と書いている。
今でもあるがいつの物かは定かでない。
信玄塚から見る
昌胤討死後、長男昌治が家督継ぐが上州の戦いで深手を負い死す、次男貞胤が継ぎ、勝頼討たれ武田家滅亡すると一族は徳川・真田等に仕えたり、各地に生き今に栄えているという。
ただ、昌胤の子昌栄(まさひで)は大坂夏の陣でい行方不明になったという。
新城市一桑田に原家が昌胤の子孫と云う説もあるが同じ武田家の原与左衛門の説もある、古文書等は火災焼失し確認は出来ないという。
原昌胤の墓
つづく