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2014年07月01日

長篠設楽原の戦い・見聞録 88

 土屋備前守直規の墓

 墓は新城市八束穂の常林寺の西に望月・川窪と同じ所にある。
長篠設楽原の戦い・見聞録 88
 連合軍の追撃が激しく 勝頼退却も難儀の状態になり、川窪備後、望月甚八朗、小幡備前・小山田十朗兵衛とともに数百騎をもって戦地本陣を固め踏みとどまり討死にした。この間に勝頼は出沢の橋詰へ向かった。
 常林寺境内の看板
長篠設楽原の戦い・見聞録 88

 土屋右エ門昌次(直村)の事は解るが直規の事がよく解らない。
 昌次の事は
 『姓氏家系大辞典」には元は一色、岡部を名乗っていたようである。
 武田家に仕え秋山と称し、又、金丸氏の名跡を嗣ぐ、昌次の時、土屋氏に改め右衛門尉直村と名乗る。天正3年長篠戦討死。
 養嗣、土屋惣蔵右衛門尉昌恒は昌次の舎弟、時に21歳、ともに兄と戦っていたが只一騎取って返し迫りくる敵を追い払い主君勝頼の守る。 この時初鹿野傳右衛門尉が駆けつけ主従僅か三騎にて本国甲州へ向かった。昌恒は天正10年3月11日、武田家滅びる時も従う。一族郎従行くべき方なくし田野の奥天目山に落着き、もはや逃げるとこなし、川原に敷皮して勝頼は敵をまつ。ここに落ち合っていた跡部尾張守が走り逃げんとしたので総蔵昌恒は「やあ、如何に跡部、御最期を見すて何処へ逃げ延びん、不覚さよ」と言うや、大の中指ぬき出しよつ引きて放つ、跡部た々中をぐっと射抜かれて、馬より落ちて死した。

 勝頼最期は後日です。

つづく





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Posted by エル at 23:56
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