2014年07月11日
長篠設楽原の戦い・見聞録 94
勝頼の退路
出沢の鵜の首を左岸に渡り退路に付いた時には主従僅か6騎であったと「三州長篠合戦記」にあり、それによると「滝川(出沢花の木公園)を渡って黑瀬(今の玖老勢か)から右に小松が瀬を渡り武節の城(豊田市稲武)に辿りついた」大敗した武田軍をよらぎ峠、田口まで追う体勢を取ったが備えを整え追撃を止めた。
滝川の鵜の首

織田徳川両軍が討ち取った首は1万3千余級にて内、7千余級は徳川が得た。武田は2万7千余騎であったとして戦死者は1万3千、本国へ帰郷は2千余、残る1万2千は谷川に没っしたか緒所に隠れ住んだか、途中に落ち武者狩りに遭い絶命した。織田徳川軍は討死、手負い共に6千余人であったと記している。
信州海津城で上杉軍の抑え役をしていた高坂弾正は敗戦を知るや海津城に8百騎を残し8千の兵を引き信州駒場(こまんば・長野県阿智村)まで出迎え守護し甲斐へ引き上げた。
長篠日記には武田軍が退却をしたが追撃することなく備え立て直し、引き返しての合戦に備えた。勝頼は6騎で信濃へ向かい、小松が瀬という所を越した。何者かが一首歌を落書きした。
勝頼は 武田る(猛たる)武士の甲斐もなく
小松が瀬にて名を長篠(流しの)
というのであった。
小松ヶ瀬、新城市只持側から写

敗戦を知るや高坂弾正は22日、手勢を持って信州平谷浪合にて勝頼を迎え駒場にて敗軍の兵を集め甲府へ向かったとある。
浪合郷内の三叉路

田峯城まで、勝頼と引上げて来た田峯城主菅沼定忠は城に入ろうとするが留守居役の菅沼定直らは武田敗戦を知り城門を固く閉め城主と勝頼を拒んだ。
田峯城址

仕方なく段戸山を通り武節城まで行き休息、信州駒場に入られた。高坂弾正の援軍と合流し甲州へ引き上げた。
駒場の街並み

⇒は道標
菅沼定忠は駒場に留まり城主を入れない裏切り者、定直を恨み後日、田峯城を襲撃する事になる。
武節城址

長篠の敗戦を知った高坂弾正は22日に勝頼を迎えに・・とある。高坂は松代にて上杉に備えていたから長篠から約200㎞は離れている。
21日の「勝頼危うし」の伝達方法は「狼煙」であっただろう、速いものである、驚く。
駒場の城址、狼煙台にも

以前,有る方から先祖が武田方の狼煙、情報収集役をしていたと聞いた事がある、要所に配置していたのであろう。
つづく
出沢の鵜の首を左岸に渡り退路に付いた時には主従僅か6騎であったと「三州長篠合戦記」にあり、それによると「滝川(出沢花の木公園)を渡って黑瀬(今の玖老勢か)から右に小松が瀬を渡り武節の城(豊田市稲武)に辿りついた」大敗した武田軍をよらぎ峠、田口まで追う体勢を取ったが備えを整え追撃を止めた。
滝川の鵜の首
織田徳川両軍が討ち取った首は1万3千余級にて内、7千余級は徳川が得た。武田は2万7千余騎であったとして戦死者は1万3千、本国へ帰郷は2千余、残る1万2千は谷川に没っしたか緒所に隠れ住んだか、途中に落ち武者狩りに遭い絶命した。織田徳川軍は討死、手負い共に6千余人であったと記している。
信州海津城で上杉軍の抑え役をしていた高坂弾正は敗戦を知るや海津城に8百騎を残し8千の兵を引き信州駒場(こまんば・長野県阿智村)まで出迎え守護し甲斐へ引き上げた。
長篠日記には武田軍が退却をしたが追撃することなく備え立て直し、引き返しての合戦に備えた。勝頼は6騎で信濃へ向かい、小松が瀬という所を越した。何者かが一首歌を落書きした。
勝頼は 武田る(猛たる)武士の甲斐もなく
小松が瀬にて名を長篠(流しの)
というのであった。
小松ヶ瀬、新城市只持側から写

敗戦を知るや高坂弾正は22日、手勢を持って信州平谷浪合にて勝頼を迎え駒場にて敗軍の兵を集め甲府へ向かったとある。
浪合郷内の三叉路
田峯城まで、勝頼と引上げて来た田峯城主菅沼定忠は城に入ろうとするが留守居役の菅沼定直らは武田敗戦を知り城門を固く閉め城主と勝頼を拒んだ。
田峯城址

仕方なく段戸山を通り武節城まで行き休息、信州駒場に入られた。高坂弾正の援軍と合流し甲州へ引き上げた。
駒場の街並み
⇒は道標
菅沼定忠は駒場に留まり城主を入れない裏切り者、定直を恨み後日、田峯城を襲撃する事になる。
武節城址
長篠の敗戦を知った高坂弾正は22日に勝頼を迎えに・・とある。高坂は松代にて上杉に備えていたから長篠から約200㎞は離れている。
21日の「勝頼危うし」の伝達方法は「狼煙」であっただろう、速いものである、驚く。
駒場の城址、狼煙台にも
以前,有る方から先祖が武田方の狼煙、情報収集役をしていたと聞いた事がある、要所に配置していたのであろう。
つづく