2016年06月28日
井伊家ゆかりの地 信濃大河原・御所平と宝篋印塔
信濃の拠点、大河原の御所平を訪ねる。
南朝方、井伊谷井伊家にいた宗良親王は北朝方に攻められ信濃の大河原・香坂高宗の所に身を寄せる。
大河原城が奇襲されてはと考えたのか小渋川沿いの奥地に宗良親王を迎えた、興国5年(1344)のことと云う。興国4年の冬34歳の時に香坂高宗に迎えられたとも云う。
御所跡

小渋橋を渡らず右岸の細い道を行く

約9km、道の行き止り左上に復元した御所があった

井伊谷から退避され即大河原に在住されたのではなく、越中等に行かれていたようです

興国4,5年に大河原を拠点し各地を転戦されたようです
正平2年(1352)駿河へ半年
7年には足利尊氏を鎌倉から追い出すが失敗
10年、塩尻の桔梗ヶ原の戦い負け
12年、大河原に戻る
24年には北朝方の守護上杉朝房らに大河原を攻められるが香坂一族の厳守は破られなかった。山間の大河原であるから大軍移動が困難、と冬の降雪に守られたのでしょう。南朝方の衰退は明らかになる
文中3年(1374)ごろに吉野へ行ったようです、歌人である宗良親王は「李花集」を編纂し(季花集と書いたものもある)過ごすが昔の知人も亡くなられ心を満たす事も出来ずに大河原へ天授3年(1377)戻った。子である尹良親王も同居していただろうか。
翌年再度、吉野へ、河内国山田に在住と云う、「新葉集」編纂する
その後の行動は不明、元中6年薨(みまかる)
元中2年8月10日井伊城にて74歳薨説、元中6年大河原にて79歳薨説がある。

南朝一の歌人であった、ここ御所平を詠まれた
いづかたも 山の端近き柴の戸は
月みる空やすくなかるらむ

親王が長期滞在された所を御所と言う地名で残っているようです。
御所平への途中に宗良親王の墓標塔として祀っている宝篋印塔がある

道から20m程上ると神社の下手に地元では「九輪之塔」云われている

印塔が蓋いに守られてある

宗良親王が大河原身罷る説の裏付け史跡、関西の寺の古書に大河原死亡説が書かれているという。
井伊家一族の誰か、同行していたか?
南朝方、井伊谷井伊家にいた宗良親王は北朝方に攻められ信濃の大河原・香坂高宗の所に身を寄せる。
大河原城が奇襲されてはと考えたのか小渋川沿いの奥地に宗良親王を迎えた、興国5年(1344)のことと云う。興国4年の冬34歳の時に香坂高宗に迎えられたとも云う。
御所跡
小渋橋を渡らず右岸の細い道を行く
約9km、道の行き止り左上に復元した御所があった
井伊谷から退避され即大河原に在住されたのではなく、越中等に行かれていたようです
興国4,5年に大河原を拠点し各地を転戦されたようです
正平2年(1352)駿河へ半年
7年には足利尊氏を鎌倉から追い出すが失敗
10年、塩尻の桔梗ヶ原の戦い負け
12年、大河原に戻る
24年には北朝方の守護上杉朝房らに大河原を攻められるが香坂一族の厳守は破られなかった。山間の大河原であるから大軍移動が困難、と冬の降雪に守られたのでしょう。南朝方の衰退は明らかになる
文中3年(1374)ごろに吉野へ行ったようです、歌人である宗良親王は「李花集」を編纂し(季花集と書いたものもある)過ごすが昔の知人も亡くなられ心を満たす事も出来ずに大河原へ天授3年(1377)戻った。子である尹良親王も同居していただろうか。
翌年再度、吉野へ、河内国山田に在住と云う、「新葉集」編纂する
その後の行動は不明、元中6年薨(みまかる)
元中2年8月10日井伊城にて74歳薨説、元中6年大河原にて79歳薨説がある。
南朝一の歌人であった、ここ御所平を詠まれた
いづかたも 山の端近き柴の戸は
月みる空やすくなかるらむ
親王が長期滞在された所を御所と言う地名で残っているようです。
御所平への途中に宗良親王の墓標塔として祀っている宝篋印塔がある
道から20m程上ると神社の下手に地元では「九輪之塔」云われている
印塔が蓋いに守られてある
宗良親王が大河原身罷る説の裏付け史跡、関西の寺の古書に大河原死亡説が書かれているという。
井伊家一族の誰か、同行していたか?