2016年07月17日
井伊家ゆかりの地 常福寺の宗良親王墓
南北朝時代、後醍醐天皇皇子、宗良親王は南朝勢力拡大のため遠江の井伊谷、井伊家にいたが北朝方の攻撃に堪えきれず井伊谷を後にし信州へと移動した事は前に記載しました。
宗良親王の墓が信州長谷村溝口の常福寺境内(長野県上伊那郡高森村)にあるという。親王墓所には井伊谷、大河原と伝えられているが当地を尋ねる。
中央高速道伊奈インターから高遠町を三峰川を遡って約20㎞、仙丈ヶ岳(3032.6m)の懐に美和ダムがあり段丘に常福寺はあった。
駐車場

山門 宗良親王墓の看板ある

墓の位置案内がない、訪ねると本堂の北方向の「御山」樹林内という

御山の前 階段の先に無縫塔が見える


無縫塔 明治中期ごろ、御山の北を流れる小犬沢の水路に上部が円形の無縫塔が埋れているのが見つかった。僧侶の墓石形状から僧侶の墓石と常福寺の墓地に安置した。「長谷村の文化財」(長谷村文化財専門委員会発行)によると、昭和6年5月12日、宗良親王遺跡調査にきた郷士史家唐沢、長坂両氏が無縫塔を見て「菊の御紋・尊燈法親王」の文字が刻みあり、左側面に「元中二乙丑十月一日尹良」と刻み読めた。尹良(ゆきよし)とは井伊家娘との間に生まれた親王のことである。
無縫塔を見るが風化が進み文字らしいが読めなかった

御山(みやま)は二十m程の小山であるが古来より御山に登ると足が腫れる、たたりがあるとかいわれ近寄るものがいなかった。御山山頂に安置し春秋二回供養例祭を行っている。
階段前を北に行くと小犬沢

昭和6年11月常福寺の位牌堂から「新田助成無縁亡霊等」と記した位牌に左右に60余名の老若男女の戒名・俗名を列記したものが発見された。これは宗良親王に随従し山野に戦死した新田一族であるという。
地図 黒⇒常福寺 赤⇒御山宗良親王無縫塔

寺裏に大徳王寺城の看板があり

大徳王寺城の戦いがあったと読んだことがあるがここがその場所とはしりませんでした。
この戦いに宗良親王は係わって戦死したのか?
本堂屋根改修工事中に屋根裏から落下した物があった。
つづく
宗良親王の墓が信州長谷村溝口の常福寺境内(長野県上伊那郡高森村)にあるという。親王墓所には井伊谷、大河原と伝えられているが当地を尋ねる。
中央高速道伊奈インターから高遠町を三峰川を遡って約20㎞、仙丈ヶ岳(3032.6m)の懐に美和ダムがあり段丘に常福寺はあった。
駐車場
山門 宗良親王墓の看板ある
墓の位置案内がない、訪ねると本堂の北方向の「御山」樹林内という
御山の前 階段の先に無縫塔が見える
無縫塔 明治中期ごろ、御山の北を流れる小犬沢の水路に上部が円形の無縫塔が埋れているのが見つかった。僧侶の墓石形状から僧侶の墓石と常福寺の墓地に安置した。「長谷村の文化財」(長谷村文化財専門委員会発行)によると、昭和6年5月12日、宗良親王遺跡調査にきた郷士史家唐沢、長坂両氏が無縫塔を見て「菊の御紋・尊燈法親王」の文字が刻みあり、左側面に「元中二乙丑十月一日尹良」と刻み読めた。尹良(ゆきよし)とは井伊家娘との間に生まれた親王のことである。
無縫塔を見るが風化が進み文字らしいが読めなかった
御山(みやま)は二十m程の小山であるが古来より御山に登ると足が腫れる、たたりがあるとかいわれ近寄るものがいなかった。御山山頂に安置し春秋二回供養例祭を行っている。
階段前を北に行くと小犬沢
昭和6年11月常福寺の位牌堂から「新田助成無縁亡霊等」と記した位牌に左右に60余名の老若男女の戒名・俗名を列記したものが発見された。これは宗良親王に随従し山野に戦死した新田一族であるという。
地図 黒⇒常福寺 赤⇒御山宗良親王無縫塔
寺裏に大徳王寺城の看板があり
大徳王寺城の戦いがあったと読んだことがあるがここがその場所とはしりませんでした。
この戦いに宗良親王は係わって戦死したのか?
本堂屋根改修工事中に屋根裏から落下した物があった。
つづく