2016年08月27日
井伊家ゆかりの地 都田城址
井伊谷三人衆と言われ浜松市北区都田(みやこた)に都田城を築いた菅沼家の城址を探して3回目の都田町訪問、やっと城跡に辿り着きました。
三河長篠の菅沼家から分家都田に住した菅沼家は井伊家傘下の今川家に属したか後に井伊家に属し徳川家の傘下になったか定かでない。
当時は今川家勢力内の長篠菅沼家でしたから今川家の力を借りなければ都田へ住すことは出来なかったか。
都田の「上の山」まで辿りついて城址の事が聞き出せなかった前回、上の山は南に国道362号線、東に都田川の丘陵地になっている。都田川沿いの駐車禁止の札多く建つ細い道を行くと民家があり城址のことを尋ねる。「知らない」と言う、「上の山はこの上だから戻って細い道を右に上がって聞いたら」とのこと。前回は40年ほど住んでいる方に伺ったが代々住んでいる方がいれば何か伺えるかもしれない。
左右が生け垣の細道を行くと昔から住んでいると想われる民家があり尋ねると70代の御婦人が「ああ、元宮様のある所です」とたやすく言われた。「城址を尋ねて3回めです」と話すと「今から千年以上前に須倍・すべ神社が祀られていた、今は元宮様が祀られている、この裏になる、家の畑の高い所に城があったと聞いている、案内しましょう」と民家の裏に農耕地用の細い道が高細羽垣根の間を通っていいる。ミカン畑であったであろうか3分程歩くと広い所に出る
「先の高い所に城があったと聞いている」 耕地の先に社がある

一段高い所に城があった、

聞いた事だが「この地から鎧、兜等が掘り出された」という

南西の角とに「都田城址」の柱

屋敷跡から耕作地になったであろうか

西側へ歩くと前に伺った「竜洞院」の道へ出た

正面の林の中辺りが都田城址
都田は京田郷といい伊勢神宮の京田御厨(農産物納め地)があり神明宮が内宮外宮と祀られていたという。地名も須倍と言い須倍苗字の方が多く住み須倍神社がある。同神社は上の山にあって仁和3年(887)創建、伊勢の神明宮のように祀られていたであろう。延喜2年(902)今の地に移転し内外の宮を一祀り須倍神社としたのか。その後に菅沼氏が移り住み館を構えただろう。須倍を氏家系辞典で調べると陶器、須恵器に関することのようだが須倍氏のことは解らない。
近くの城跡の事は知らないと話された龍洞院と都田菅沼家は関係ありそうです。
三河長篠の菅沼家から分家都田に住した菅沼家は井伊家傘下の今川家に属したか後に井伊家に属し徳川家の傘下になったか定かでない。
当時は今川家勢力内の長篠菅沼家でしたから今川家の力を借りなければ都田へ住すことは出来なかったか。
都田の「上の山」まで辿りついて城址の事が聞き出せなかった前回、上の山は南に国道362号線、東に都田川の丘陵地になっている。都田川沿いの駐車禁止の札多く建つ細い道を行くと民家があり城址のことを尋ねる。「知らない」と言う、「上の山はこの上だから戻って細い道を右に上がって聞いたら」とのこと。前回は40年ほど住んでいる方に伺ったが代々住んでいる方がいれば何か伺えるかもしれない。
左右が生け垣の細道を行くと昔から住んでいると想われる民家があり尋ねると70代の御婦人が「ああ、元宮様のある所です」とたやすく言われた。「城址を尋ねて3回めです」と話すと「今から千年以上前に須倍・すべ神社が祀られていた、今は元宮様が祀られている、この裏になる、家の畑の高い所に城があったと聞いている、案内しましょう」と民家の裏に農耕地用の細い道が高細羽垣根の間を通っていいる。ミカン畑であったであろうか3分程歩くと広い所に出る
「先の高い所に城があったと聞いている」 耕地の先に社がある
一段高い所に城があった、
聞いた事だが「この地から鎧、兜等が掘り出された」という
南西の角とに「都田城址」の柱
屋敷跡から耕作地になったであろうか
西側へ歩くと前に伺った「竜洞院」の道へ出た
正面の林の中辺りが都田城址
都田は京田郷といい伊勢神宮の京田御厨(農産物納め地)があり神明宮が内宮外宮と祀られていたという。地名も須倍と言い須倍苗字の方が多く住み須倍神社がある。同神社は上の山にあって仁和3年(887)創建、伊勢の神明宮のように祀られていたであろう。延喜2年(902)今の地に移転し内外の宮を一祀り須倍神社としたのか。その後に菅沼氏が移り住み館を構えただろう。須倍を氏家系辞典で調べると陶器、須恵器に関することのようだが須倍氏のことは解らない。
近くの城跡の事は知らないと話された龍洞院と都田菅沼家は関係ありそうです。