2016年09月14日
井伊家ゆかりの地 只木公家塚
浜松市三ヶ日町図書館で井伊家の西守城、千頭峯城址の近くに「公家塚」があり千頭峯城の戦いで亡くなられた主従の墓と伝えられているという。
只木集落の入り口、橋を渡り直ぐ左折して釣橋川左岸の道を約100m下がった右上にあった。
調べて見ると地主の山本家が開墾し畑になっているが墓石組を修理した時、古銭、栄銭、永楽通宝、明銭が出てきたという。地元では南朝方の王子と従者の墓で南朝方、尊良(たかなが)親王説等があるようですが、尊良親王は恒良(つねなが)親王と北国・敦賀金ヶ崎城で新田義貞と北朝足利軍に高師泰が加わり5万の敵兵と対峙、延元2年(1337)3月6日餓死寸前、総攻撃にあい自害した(太平記)とある。
只木公家塚

休耕地か、案内板は文字が消えていた

右上畑に塚はあった

この墓はだれでしょう?
後醍醐天皇を支え戦った尊良親王、宗良親王は実の兄弟です。
異母兄弟には恒良(つねよし)、成良(なりよし)、義良(のりよし、後村上天皇)等と計30人はいたと想われます。
24℃→29.5℃ 曇り
只木集落の入り口、橋を渡り直ぐ左折して釣橋川左岸の道を約100m下がった右上にあった。
調べて見ると地主の山本家が開墾し畑になっているが墓石組を修理した時、古銭、栄銭、永楽通宝、明銭が出てきたという。地元では南朝方の王子と従者の墓で南朝方、尊良(たかなが)親王説等があるようですが、尊良親王は恒良(つねなが)親王と北国・敦賀金ヶ崎城で新田義貞と北朝足利軍に高師泰が加わり5万の敵兵と対峙、延元2年(1337)3月6日餓死寸前、総攻撃にあい自害した(太平記)とある。
只木公家塚
休耕地か、案内板は文字が消えていた
右上畑に塚はあった
この墓はだれでしょう?
後醍醐天皇を支え戦った尊良親王、宗良親王は実の兄弟です。
異母兄弟には恒良(つねよし)、成良(なりよし)、義良(のりよし、後村上天皇)等と計30人はいたと想われます。
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