2014年06月29日
長篠設楽原の戦い・見聞録 86
望月甚八朗重氏の墓
この戦いで無念にも討たれこの地に葬られている武田方の武将は40余将あると云う。
設楽原まもる会発行の『設楽原戦場考』に同会が『藷山随筆』に「柳田郷興兵衛なるものの裏山に土饅頭三つ一列に並び・・川窪詮秋・土屋直規・望月重氏の墓・・」の記載からこの墓を苦労して探し当てた事が書いてある。柳田郷の寺過去帳、民家の古文書過去帳を調査して興兵衛を見つけて裏山に土饅頭らしいものが三つあったと言い伝えられていると知る。
新城市八束穂字藤谷の常林寺の西にあたり、境内墓地苑の西にあたる。

ここは勝頼観戦地の西、約150mに辺りである。
この墓は長篠望月家が建立した。

長篠城攻めには望月甚八朗重氏と望月右近太夫義勝がいた。設楽原の戦いで戦死したのは重氏である。
武田方の記には重氏・義勝共に長篠合戦にて討ち死にとなっている。義勝は東栄町御園の峠に墓があり地元では望月峠と呼んで祀られている。
墓前から連吾川を見下ろすと馬房柵が見える

『氏家系大辞典』には天文年間に遠江守信雅、その子甚八朗あり、武田に属す。永禄八年、甚八朗の女・武田信豊舎弟義勝に嫁し、望月名跡を襲ぐ。その子右近太夫義勝なり。長篠に戦死す。一族源五郎・徳川に攻められ死す、とある。
望月家は天正10年9月信濃甲州攻めにて滅亡する。
望月義勝の末裔は長篠に来て長篠望月家として栄える。
望月右近太夫義勝の名前が出てきました、2011年5月連載『望月峠の墓』を思い出す。
長篠の望月家について 2011.5.16~6.5まで11回記載
望月重氏 墓
つづく
この戦いで無念にも討たれこの地に葬られている武田方の武将は40余将あると云う。
設楽原まもる会発行の『設楽原戦場考』に同会が『藷山随筆』に「柳田郷興兵衛なるものの裏山に土饅頭三つ一列に並び・・川窪詮秋・土屋直規・望月重氏の墓・・」の記載からこの墓を苦労して探し当てた事が書いてある。柳田郷の寺過去帳、民家の古文書過去帳を調査して興兵衛を見つけて裏山に土饅頭らしいものが三つあったと言い伝えられていると知る。
新城市八束穂字藤谷の常林寺の西にあたり、境内墓地苑の西にあたる。
ここは勝頼観戦地の西、約150mに辺りである。
この墓は長篠望月家が建立した。
長篠城攻めには望月甚八朗重氏と望月右近太夫義勝がいた。設楽原の戦いで戦死したのは重氏である。
武田方の記には重氏・義勝共に長篠合戦にて討ち死にとなっている。義勝は東栄町御園の峠に墓があり地元では望月峠と呼んで祀られている。
墓前から連吾川を見下ろすと馬房柵が見える
『氏家系大辞典』には天文年間に遠江守信雅、その子甚八朗あり、武田に属す。永禄八年、甚八朗の女・武田信豊舎弟義勝に嫁し、望月名跡を襲ぐ。その子右近太夫義勝なり。長篠に戦死す。一族源五郎・徳川に攻められ死す、とある。
望月家は天正10年9月信濃甲州攻めにて滅亡する。
望月義勝の末裔は長篠に来て長篠望月家として栄える。
望月右近太夫義勝の名前が出てきました、2011年5月連載『望月峠の墓』を思い出す。
長篠の望月家について 2011.5.16~6.5まで11回記載
2011/05/16
愛知県東栄町御園地区望月峠に墓であると伝えられ碑があります。
約30年前にこの話を聞き一度訪れたいと思っていましたが御園まで来ましたので峠に行きました。 天正3年5月(1575年)長篠の戦いで敗れた武田軍は各々郷里へと逃れる途中に「落ち武者狩り」で命を落とした者が多かったと言います。
その1人の墓…
約30年前にこの話を聞き一度訪れたいと思っていましたが御園まで来ましたので峠に行きました。 天正3年5月(1575年)長篠の戦いで敗れた武田軍は各々郷里へと逃れる途中に「落ち武者狩り」で命を落とした者が多かったと言います。
その1人の墓…
望月重氏 墓
つづく