2014年07月03日
長篠設楽原の戦い・見聞録 89
堀無手右エ門の墓(ほりむてえもん)
堀の墓は「藷山随筆」には「下々地内、飯田街道東、塚があり椿の老樹がある」と記してあるが不明であった。
平成10年に「設楽原まもる会」が「藷山随筆」に基づき堀の墓を建てた。
今の墓
新城市八束穂地区五反田川(宮脇川・四反田川)に架かる甲田橋北東の道路東にある

長篠日記には、渡辺忠右衛門重綱と小栗又一忠政が掘無手右衛門と渡り合い両人で討ち取ったとある。
三州長篠合戦記にも同様な事が記してある。
ところが、甲陽軍艦には天正8年の城攻めに参加したとあり天正3年の設楽原では戦死していない事になる。
日本戦史長篠役付表には武田軍として姓名があり戦死となっている。
連吾川の東側にある五反田川沿いは勝頼本隊が退路にし浅谷、出沢へとつづく、途中に甲を捨てた「甲田」や真田兄弟の墓もある。

小屋の右上に墓あり
甲陽軍艦には堀は三河の浪人とあるが「姓氏家系大辞典」には参河の堀氏碧海郡の名族にして二葉松等に堀の内城、城主堀小三郎也。
詳しいことは解らない。
堀の墓
つづく
堀の墓は「藷山随筆」には「下々地内、飯田街道東、塚があり椿の老樹がある」と記してあるが不明であった。
平成10年に「設楽原まもる会」が「藷山随筆」に基づき堀の墓を建てた。
今の墓
長篠日記には、渡辺忠右衛門重綱と小栗又一忠政が掘無手右衛門と渡り合い両人で討ち取ったとある。
三州長篠合戦記にも同様な事が記してある。
ところが、甲陽軍艦には天正8年の城攻めに参加したとあり天正3年の設楽原では戦死していない事になる。
日本戦史長篠役付表には武田軍として姓名があり戦死となっている。
連吾川の東側にある五反田川沿いは勝頼本隊が退路にし浅谷、出沢へとつづく、途中に甲を捨てた「甲田」や真田兄弟の墓もある。
小屋の右上に墓あり
甲陽軍艦には堀は三河の浪人とあるが「姓氏家系大辞典」には参河の堀氏碧海郡の名族にして二葉松等に堀の内城、城主堀小三郎也。
詳しいことは解らない。
堀の墓
つづく