2014年07月05日
長篠設楽原の戦い・見聞録 91
禰津甚平是広の墓
常田図書春清の墓

禰津甚平是広
『藷山随筆』には禰津甚平是広の墓あり、とあるが武田方の真田、禰津家の古文書には甚平是広の名はない。
「姓氏家系大辞典」には諏訪神族、滋野姓海野族から分離、信濃小県郡禰津邑より起きる、とある。
禰津家の系図には美濃守信直(栄安、長篠戦死)とある。
「設楽原戦場考」(設楽原まもる会)の諸書、諸系図にはとして、東部町史に、神平月直→長篠討死。
武田三代記として、月直→長篠ニテ討死、とある。
禰津系図に禰津神平・・とあり甚平となっていない。神と甚、シン・ジン、聴き取り間違いか?。
甚平是広な誰であろうか?。

設楽原では真田兄弟、謙原らと織田軍に突撃するが馬防柵内に待機する敵を討つこと出来ず。棚から鉄砲を撃つ事で武田兵は死傷者増えるのみであった。再三の攻撃により兵を減らす武田方の各武将は「今日を限りの命」と棚内目がけ突進1.2の棚を打ち砕くが壮烈な最後を遂げる。
常田図書春清
「姓氏家系大辞典」には常田をトキタ、ツネタとあり、いずれも信濃の小県郡、常田庄、時田庄ありと記している。また、滋野姓にして真田系図に「真田(海野)幸義の子、隆家を稱える。と有る事から海野・真田・禰津・常田氏は子孫は一つのようで一族血縁関係にあるようです。
海野常田隆家が名家の常田を襲名した。隆家は上杉軍と原城で戦い討ち死しその子が図書助道尭と言い長篠の戦いで討ち死にしていることから春清は道尭(どうぎょ)ではないかと思われます。
常田の設楽原の戦いは真田一族と共に戦ったと思われいずれの将も壮烈な最後を遂げたようです。

右端が真田兄弟も墓
墓は真田兄弟と同じ地にあり、丸山、大宮前激戦地の北東約800m、勝頼退路になる。
つづく
常田図書春清の墓
禰津甚平是広
『藷山随筆』には禰津甚平是広の墓あり、とあるが武田方の真田、禰津家の古文書には甚平是広の名はない。
「姓氏家系大辞典」には諏訪神族、滋野姓海野族から分離、信濃小県郡禰津邑より起きる、とある。
禰津家の系図には美濃守信直(栄安、長篠戦死)とある。
「設楽原戦場考」(設楽原まもる会)の諸書、諸系図にはとして、東部町史に、神平月直→長篠討死。
武田三代記として、月直→長篠ニテ討死、とある。
禰津系図に禰津神平・・とあり甚平となっていない。神と甚、シン・ジン、聴き取り間違いか?。
甚平是広な誰であろうか?。
設楽原では真田兄弟、謙原らと織田軍に突撃するが馬防柵内に待機する敵を討つこと出来ず。棚から鉄砲を撃つ事で武田兵は死傷者増えるのみであった。再三の攻撃により兵を減らす武田方の各武将は「今日を限りの命」と棚内目がけ突進1.2の棚を打ち砕くが壮烈な最後を遂げる。
常田図書春清
「姓氏家系大辞典」には常田をトキタ、ツネタとあり、いずれも信濃の小県郡、常田庄、時田庄ありと記している。また、滋野姓にして真田系図に「真田(海野)幸義の子、隆家を稱える。と有る事から海野・真田・禰津・常田氏は子孫は一つのようで一族血縁関係にあるようです。
海野常田隆家が名家の常田を襲名した。隆家は上杉軍と原城で戦い討ち死しその子が図書助道尭と言い長篠の戦いで討ち死にしていることから春清は道尭(どうぎょ)ではないかと思われます。
常田の設楽原の戦いは真田一族と共に戦ったと思われいずれの将も壮烈な最後を遂げたようです。
右端が真田兄弟も墓
墓は真田兄弟と同じ地にあり、丸山、大宮前激戦地の北東約800m、勝頼退路になる。
つづく