2016年08月05日
井伊家ゆかりの地 初代・共保公を拾った男
井伊家初代の共保(ともやす)公を井戸脇で拾ったという藤原共資(ともやす)とはどんな人物か?
共資は正暦年間(990~994)天皇の命で国司または巡検使として当地にきたという。遠江古跡図絵(H3発行)には井伊谷八幡宮の神主・西尾秀次が正月1日神社へむかう途中、井戸端に赤子を発見し拾って家に帰った。村櫛郷の藤原共資に女子しかいなかったので養子に迎えた。元服して自分の娘と結婚させ井伊氏を名乗らせた。また、井戸の近くの地蔵院(龍潭寺)の和尚が赤子を拾ったともいう。
また、共保は藤原共資が正月謂伊神社へ詣で帰り道に井戸脇で泣いている赤子を見つけ家に連れて帰り育て娘と結婚させた、それは平安中期寛弘7年(1010)のことだったと云う。
浜松市西区村櫛町4598-9の藤原氏が住んでいたという志津(しづ)城跡へ行ってみる。浜名湖国際頭脳センター近くだった。

頭脳センターからみる 城山と言う高さ25mの小丘

明治以降、丘を削って湖を埋めたため平地になったという
案内板の地図

赤丸が志津城跡
志津城碑
共資は正暦年間(990~994)天皇の命で国司または巡検使として当地にきたという。遠江古跡図絵(H3発行)には井伊谷八幡宮の神主・西尾秀次が正月1日神社へむかう途中、井戸端に赤子を発見し拾って家に帰った。村櫛郷の藤原共資に女子しかいなかったので養子に迎えた。元服して自分の娘と結婚させ井伊氏を名乗らせた。また、井戸の近くの地蔵院(龍潭寺)の和尚が赤子を拾ったともいう。
また、共保は藤原共資が正月謂伊神社へ詣で帰り道に井戸脇で泣いている赤子を見つけ家に連れて帰り育て娘と結婚させた、それは平安中期寛弘7年(1010)のことだったと云う。
浜松市西区村櫛町4598-9の藤原氏が住んでいたという志津(しづ)城跡へ行ってみる。浜名湖国際頭脳センター近くだった。
頭脳センターからみる 城山と言う高さ25mの小丘
明治以降、丘を削って湖を埋めたため平地になったという
案内板の地図
赤丸が志津城跡
志津城碑