2016年11月30日
井伊家ゆかりの地 続・瀬戸方久は
井伊家と関わりがあったという瀬戸村の商人・瀬戸方久は実在したか、浜松市北区の井伊谷へ向う。その前に井伊谷の「多目的研修センター」に亀之丞(直親)の「青葉の笛(レプリカ)」があると聞き訪ねる。
センターに入り中にいた御婦人に青葉の笛の事を尋ねるとお婦人も歴史に詳しい方で話が止まらない。今日ここを尋ねた経緯を話すと、もっと詳しい〇〇さんががいますから連絡とってみましょう、と携帯を握り連絡をしていただく。瀬戸方久の事を尋ねると「瀬戸村の方久の墓は知らない、一緒に午後探索しましょう」ということになったのです。
方久は実在するかは史料に記載がある、井伊直盛の時に「井伊谷七人衆」に名があり年貢の事で名がある。桶狭間の戦い後に何があった武士から商人に転身し名主になり、金貸もして今川氏に上手く入り込んだようだ。
永禄9年(1566)今川氏真が徳政令を井伊家に命令する、借金を帳消しにすることは方久にとっては一大事、井伊家も方久から借りていたでしょうから井伊家の信用、方久も貸した物が回収できないでは困る。2年間は何んとか延したが今川氏には逆らえず直虎は徳政令を発布する。一方、方久は今川氏に徳政免除書状を取付る。
徳川氏が遠江、井伊谷に侵攻してくると家宝の刀「千寿丸重船」を家康に献上(遠江蹟図会・瀬戸村之郷士)。家康から永禄12年(1569)8月3日、安堵状 於井伊谷所々買得地之事 とあり
家康 永禄拾弐年己巳年八月三日 という安堵状を受け取る。
徳川にも技量を発揮して商売を成功させていった。
しかし突然、命を絶ったという。詳しい事は解らないが慶長11年(1606)塩の訴状を農民のために書いた所どうしたことか絶命したという、82歳。
墓は龍潭寺にあるといい、供養塔が瀬戸村にあった。

細江町三和高台から三岳城址を見る

大凡のことは判明したがマダマダ疑問が残る。
6.5℃ → 16℃ 曇り時々晴れ
センターに入り中にいた御婦人に青葉の笛の事を尋ねるとお婦人も歴史に詳しい方で話が止まらない。今日ここを尋ねた経緯を話すと、もっと詳しい〇〇さんががいますから連絡とってみましょう、と携帯を握り連絡をしていただく。瀬戸方久の事を尋ねると「瀬戸村の方久の墓は知らない、一緒に午後探索しましょう」ということになったのです。
方久は実在するかは史料に記載がある、井伊直盛の時に「井伊谷七人衆」に名があり年貢の事で名がある。桶狭間の戦い後に何があった武士から商人に転身し名主になり、金貸もして今川氏に上手く入り込んだようだ。
永禄9年(1566)今川氏真が徳政令を井伊家に命令する、借金を帳消しにすることは方久にとっては一大事、井伊家も方久から借りていたでしょうから井伊家の信用、方久も貸した物が回収できないでは困る。2年間は何んとか延したが今川氏には逆らえず直虎は徳政令を発布する。一方、方久は今川氏に徳政免除書状を取付る。
徳川氏が遠江、井伊谷に侵攻してくると家宝の刀「千寿丸重船」を家康に献上(遠江蹟図会・瀬戸村之郷士)。家康から永禄12年(1569)8月3日、安堵状 於井伊谷所々買得地之事 とあり
家康 永禄拾弐年己巳年八月三日 という安堵状を受け取る。
徳川にも技量を発揮して商売を成功させていった。
しかし突然、命を絶ったという。詳しい事は解らないが慶長11年(1606)塩の訴状を農民のために書いた所どうしたことか絶命したという、82歳。
墓は龍潭寺にあるといい、供養塔が瀬戸村にあった。
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大凡のことは判明したがマダマダ疑問が残る。
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