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2017年02月27日

井伊直虎ゆかりの地-26 家老小野家つづき

 井伊家の家老であった小野家の続編です。
 図書館で小野家を書いたものは遠州小野一族、家老小野一族などがある。
 前回と重複するが記しておく。
小野篁(たかむら)の子、小野俊生は承和5年(838)頃に遠江国赤狭地方に移った?渡来人系・東漢氏(やまとあや)一族の桧前(ひのくま)人が多く住んでいた。ひのくま、引馬地区の麁玉川(あらたまかわ・天竜川)があり河原の荒い石がゴロゴロした荒地であった、山から石灰岩が迫り狭まった所だったようです。陸地は今より狭く海水が押寄せていたようだ。
 従三位の位を賜ったは52歳で仁寿2年(852)12月22日生涯を終えた。 
 俊生は翌年父の遺骨を遠江国赤狭郡小野村に移す。
浜北区尾野地区を高根神社拝殿から見る
井伊直虎ゆかりの地-26 家老小野家つづき

 井伊家の小野氏は小野村、小野兵庫助を最初として和泉守正成、子の但馬守政次とその子兵衛をもって井伊谷で処刑、お家断絶になる。兵庫助の子と思われる政成に兄弟があり今川義元と共に桶狭間で討死している。井伊家の跡取り男子が虎松だけになり鳳来寺に逃げた。井伊谷は小野但馬守政次が治めることになるが井伊家乗っ取りと視なされる。徳川軍に井伊谷三人衆が加わり井伊谷に攻め込むと小野は逃げ隠れるが捕まり処刑される。親戚兄弟は今川氏をたよるが今川氏も徳川氏に敗れ北條氏をたよった。武士を止め高畑村土着、浪人になった。小野玄蕃朝直の子、小野朝之は井伊直政に仕え家康と共に転戦し井伊家の家臣千石になったという。
 政直ー但馬守政次 処刑
     太兵衛 高畑郷下所(おりど)の小野家
     七郎右衛門朝之 井伊直勝に仕える
     八朗正賢 高畑郷鐘鋳場小野家
     利左衛門兵蔵 金指近藤家仕える
 井伊家内のことであったからか親兄弟親戚すべてが刑罰の対象なったのではないようです。

 時は戦国 元亀3年12月、家康は三方ハ原で信玄に敗れ浜松城へ駆け込む時に乗っていた馬が木の根につまずき倒れる。
 その時高根神社の長家播磨守がいた、長家は自分の馬を差出と家康は礼を言い「馬と馬具は与える」と言い走り去った。高根神社には木造馬頭観世音菩薩を彫り祀った。明治になり大宝寺の十三堂に祭った。
 尾野地区から見る高根神社拝殿
井伊直虎ゆかりの地-26 家老小野家つづき

 また、家康の馬が倒れた時に小野氏がいた、乗馬9頭の内から家康好みの馬を替え馬として献上、馬、馬具一切と御書付を小野は受け取る。文禄3年(1594)高根神社に馬頭観音として合祀、今は大宝寺境内に観音堂としてある。天正3年、大久保忠世軍に小野貞次も加わって二俣城を攻めている。領主が近藤岩見守なると公私の家系、上下差違をもって鈴木姓にせよ、小野村2村ありよって、井小野と尾野に改めた。

  橘逸勢の記載があったので載せます。 
小野俊生の時代
その頃、橘逸勢(たちばなのはやなり)が無実の罪で伊豆国へ流罪になり遠江国板築(ほうつき)駅(都築?)で病死する。娘の妙仲は後を追ってきたて死地に弔う。浜松市北区三ヶ日町日比沢に神社としてあるが大正14年、海軍医・戸塚氏が出土した鏡をもって橘逸勢の遺跡と決めた。
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Posted by エル at 22:16
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