2017年10月22日
井伊直虎ゆかりの地 81 長篠城の戦い 武田軍を設楽原」へ誘き出す
決戦は天正3年5月21日(1575、新暦7月9日)
合戦屏風図 連吾川を挟んで左、織田徳川連合軍

右に武田軍
多くの武将などが戦記を書いた、読んでそこから絵図にしたもの。
まつりの火縄銃演武

包囲された長篠城から西に約3km、豊川に注ぐ連吾川右岸(西側)に織田徳川連合軍は馬防柵、盛土、空堀を築いた。
再現した棚

長篠城周辺は起伏川に狭い地形から連合軍3万8千兵の大軍のには動きが鈍る、このことから先に連吾川を挟んだ広くなっている所に武田軍を誘き寄せて一戦する事を信長は岐阜を発つときに決めていたのでしょう。しかし、武田軍が寒狭川を渡り西へ軍を転回しないと戦いにならい。武田軍は鳥居強右衛門から織田徳川軍が迫っていることを聞き軍議を開く。重臣の山県、馬場、内藤、原などは敵は大軍だから戦いは不利、撤退を進言するが敵に背を向けるのは恥、、と、勝頼は決戦をする事を決め連合軍の馬防棚のある連吾川東へ、軍を進める。長篠城、砦守備に2.3千兵を置き残り1万1千余の兵で橋のない20mはあるであろう崖を登り下りして
寒狭川

寒狭川を越えて連吾川東、右岸高台に向かった。
両軍布陣

連合軍配置図

酒井忠次の案で鳶が山砦など5か所を奇襲する軍、4千を20日夜発つ、21日朝、砦を奇襲する。
その案内人に宇利城主の近藤岩見守ら3人、名が古図にある


豊田籐助は地元、吉川住、野田城菅沼家
中央に近藤岩見守、井伊谷三人衆の一人
安倍(阿部)四郎兵衛は砦のある乗本の住人
織田信長は柵から出ない事を兵に下知している。
安倍氏は戦記を書いています。
ブログ内奇襲隊、長篠設楽原の戦い記事多数あり
17℃ → 21.5℃ 雨
台風21号接近中
am10時約60mm
pm6時約75mm
00時
合戦屏風図 連吾川を挟んで左、織田徳川連合軍
右に武田軍
多くの武将などが戦記を書いた、読んでそこから絵図にしたもの。
まつりの火縄銃演武
包囲された長篠城から西に約3km、豊川に注ぐ連吾川右岸(西側)に織田徳川連合軍は馬防柵、盛土、空堀を築いた。
再現した棚
長篠城周辺は起伏川に狭い地形から連合軍3万8千兵の大軍のには動きが鈍る、このことから先に連吾川を挟んだ広くなっている所に武田軍を誘き寄せて一戦する事を信長は岐阜を発つときに決めていたのでしょう。しかし、武田軍が寒狭川を渡り西へ軍を転回しないと戦いにならい。武田軍は鳥居強右衛門から織田徳川軍が迫っていることを聞き軍議を開く。重臣の山県、馬場、内藤、原などは敵は大軍だから戦いは不利、撤退を進言するが敵に背を向けるのは恥、、と、勝頼は決戦をする事を決め連合軍の馬防棚のある連吾川東へ、軍を進める。長篠城、砦守備に2.3千兵を置き残り1万1千余の兵で橋のない20mはあるであろう崖を登り下りして
寒狭川
寒狭川を越えて連吾川東、右岸高台に向かった。
両軍布陣
連合軍配置図
酒井忠次の案で鳶が山砦など5か所を奇襲する軍、4千を20日夜発つ、21日朝、砦を奇襲する。
その案内人に宇利城主の近藤岩見守ら3人、名が古図にある
豊田籐助は地元、吉川住、野田城菅沼家
中央に近藤岩見守、井伊谷三人衆の一人
安倍(阿部)四郎兵衛は砦のある乗本の住人
織田信長は柵から出ない事を兵に下知している。
安倍氏は戦記を書いています。
ブログ内奇襲隊、長篠設楽原の戦い記事多数あり
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