2014年02月14日
長篠設楽原の戦い・見聞録 1
長篠設楽原の戦い、地元で起こった有名なこの戦い、史跡伝説が多くありますが知らないことが多い、そこで訪ねることにした。
長篠城を武田勝頼が攻め、決着は設楽原の連吾川で織田信長、徳川家康連合軍と対峙、結果は武田勝頼の大敗で終わった戦いです。
長篠氏がいた長篠を田峯の菅沼氏が治めていたが奥平氏になってから武田氏に属した。信玄の死亡を知り徳川に寝返った。
京の足利将軍は今川氏に桶狭間で勝った織田信長が足利氏を蔑ろにするため織田信長を討伐するように主だった武将に要請していた。若き勝頼は家臣の反対があったが上京を決め1万5千の兵を伴い京都を目指しその途中の徳川方の城を落しながら長篠城に到着、包囲した。
牛渕橋から見た城址、左から寒狭川(豊川)、右かわ宇連川(三輪川)合流地点
長篠城主奥平貞昌は元亀4年(1673)4月に信玄死亡したと判明すると武田方に人質を出していながら徳川に属した。
武田軍は天正3年(1575)4月5日甲府を発ち、遠州から山吉田を通り宇連川に出て内金(JR長篠近郊)から長篠城に向かい4月21日に包囲した。進軍は全て同じ道は通らず目的地の長篠城を目指し各一族各々の道を進んだようです。
当時の道は幅60㎝から1mと考えられ山間地は獣道であって道でないような箇所があったと思いますから武器食糧運搬は大変なことでしょう。1万5千人分の食糧を現地調達はできたのでしょうか?
遠望 長篠城址 左が城址、右は大通寺
武田軍の上京を知り、寝返った奥平氏は徳川氏の応援をえて兵500をもって籠城を決めた。
案内板の写真
攻撃しても落ちない長篠城、武田軍は長期戦を覚悟し5ヶ所に砦を築いた。
つづく
長篠城祉
長篠城を武田勝頼が攻め、決着は設楽原の連吾川で織田信長、徳川家康連合軍と対峙、結果は武田勝頼の大敗で終わった戦いです。
長篠氏がいた長篠を田峯の菅沼氏が治めていたが奥平氏になってから武田氏に属した。信玄の死亡を知り徳川に寝返った。
京の足利将軍は今川氏に桶狭間で勝った織田信長が足利氏を蔑ろにするため織田信長を討伐するように主だった武将に要請していた。若き勝頼は家臣の反対があったが上京を決め1万5千の兵を伴い京都を目指しその途中の徳川方の城を落しながら長篠城に到着、包囲した。
牛渕橋から見た城址、左から寒狭川(豊川)、右かわ宇連川(三輪川)合流地点
長篠城主奥平貞昌は元亀4年(1673)4月に信玄死亡したと判明すると武田方に人質を出していながら徳川に属した。
武田軍は天正3年(1575)4月5日甲府を発ち、遠州から山吉田を通り宇連川に出て内金(JR長篠近郊)から長篠城に向かい4月21日に包囲した。進軍は全て同じ道は通らず目的地の長篠城を目指し各一族各々の道を進んだようです。
当時の道は幅60㎝から1mと考えられ山間地は獣道であって道でないような箇所があったと思いますから武器食糧運搬は大変なことでしょう。1万5千人分の食糧を現地調達はできたのでしょうか?
遠望 長篠城址 左が城址、右は大通寺
武田軍の上京を知り、寝返った奥平氏は徳川氏の応援をえて兵500をもって籠城を決めた。
案内板の写真
攻撃しても落ちない長篠城、武田軍は長期戦を覚悟し5ヶ所に砦を築いた。
つづく
長篠城祉