2017年03月04日
井伊直虎ゆかりの地ー29 桶狭間の戦い・井伊直盛討死
名古屋市緑区桶狭間の「桶狭間古戦場公園」を訪ねる。段丘と民家商店が混在する地域だ。最初に訪ねた桶狭間神明社には桶狭間の戦いの説明板はない、散歩中の老人に伺うと「大池の桶狭間古戦場公園に説明がある、資料館はない」と言う。
井伊直盛は千余兵を持って今川軍に加わっていた。
今川義元は京を目指していたか定かでないが西へ兵約2万5千を進める。永禄3年(1560)5月12日駿府を出て17日岡崎、18日豊明沓掛城に入る。19日朝8時半ごろ沓掛城を発ち大高城へ向かう、途中「おけはざま山」陣地に入り戦果報告を受けながら休息していた。昼頃天気が急変、強風雨落雷と高台の陣内は混乱した。
他方、織田信長は今川の2万5千の大軍に織田は4.5千の軍兵しか集まらない。19日午前4時半ごろ清州城をわずか6人で出発、熱田神宮で戦勝祈願をする、兵は約千人、今川義元本体に突撃した時は二千兵になっていた。
桶狭間古戦場田楽坪


信長・義元銅像

今川義元戦死之地 と刻まれている

駿公墓碣と刻まれている 田楽坪から出土した

建立不明
案内図をよく見ると⇒の所に井伊直盛陣地跡がある(伝)

巻山(まきやま)の高台 千余名で陣を張った所

学校の脇に小さな看板、最近建てたよう

織田軍に取り巻かれたことから「巻山」名付けられたとある
井伊陣地と今川本陣、おけはざま山は離れいる、武将が集結し戦果報告していると嵐になり混乱、そこへ織田軍の攻撃によりなお混乱し多くの武将が討死したようです。
武田軍は戦地が7.8ヶ所あり兵が分散していた、今川本陣は5千兵だった。その内、身の回り人は戦兵に成らず、本陣地から押し出され低地の泥濘にて今川義元は首を取られたという。
つづく
井伊直盛は千余兵を持って今川軍に加わっていた。
今川義元は京を目指していたか定かでないが西へ兵約2万5千を進める。永禄3年(1560)5月12日駿府を出て17日岡崎、18日豊明沓掛城に入る。19日朝8時半ごろ沓掛城を発ち大高城へ向かう、途中「おけはざま山」陣地に入り戦果報告を受けながら休息していた。昼頃天気が急変、強風雨落雷と高台の陣内は混乱した。
他方、織田信長は今川の2万5千の大軍に織田は4.5千の軍兵しか集まらない。19日午前4時半ごろ清州城をわずか6人で出発、熱田神宮で戦勝祈願をする、兵は約千人、今川義元本体に突撃した時は二千兵になっていた。
桶狭間古戦場田楽坪
信長・義元銅像
今川義元戦死之地 と刻まれている
駿公墓碣と刻まれている 田楽坪から出土した
建立不明
案内図をよく見ると⇒の所に井伊直盛陣地跡がある(伝)
巻山(まきやま)の高台 千余名で陣を張った所
学校の脇に小さな看板、最近建てたよう
織田軍に取り巻かれたことから「巻山」名付けられたとある
井伊陣地と今川本陣、おけはざま山は離れいる、武将が集結し戦果報告していると嵐になり混乱、そこへ織田軍の攻撃によりなお混乱し多くの武将が討死したようです。
武田軍は戦地が7.8ヶ所あり兵が分散していた、今川本陣は5千兵だった。その内、身の回り人は戦兵に成らず、本陣地から押し出され低地の泥濘にて今川義元は首を取られたという。
つづく