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生まれ育った地域のこと、訪ねて聴いて写真に撮って・・・
歴史 伝説 その他

2017年03月31日

田原市のシデコブシ

 田原市の「椛(なぐさ)のシデコブシ」の自生地へ行ったんです。  国指定天然記念物になっています、分布は限られているそうで東海3県の伊勢湾周辺のみだそうです。




 観光案内ではまだ早いかな~と話されたので行って見て安心しました、これだけ咲いていればOKですね。
 
 辞書には、椛=もみじ
 木と花からなり、木の葉が花のように赤く色ずく「もみじ」の意を表す、とありました。


 7℃ → 11℃ 曇り雨  
タグ :シデコブシ


Posted by エル at 19:54
Comments(0)草花

2017年03月27日

江戸の印刷書物は家康の御かげか?

徳川家康は出版書物に力を注いだと聞いた事があったがそれに係わった人物の墓に出会いました。
林五官(りんごかん)の墓です。

 説明によると
天正2年(1574)中国、明の貿易船が遠州灘沖で大暴風雨にあい西島海岸に4人漂着した。その内の1人、林五官(りんごかん)は明に帰らず残った。徳川家康は林の才能、医師両替運送を知り加護する。文字で残すのは木簡竹簡から木版になったが紙が中国で発明された文字を簡単に残す事だできる。林の御かげか銅の活字の鋳造は日本で初めてだったという慶長11年(1606)のこと。
 家康は徳川幕府体制の指示、浸透を活字文字文による強化に役だったでしょうか?。
 江戸時代の出版物が多くの庶民が読むことができたのは家康の御蔭だったでしょう?。
 
 子孫は林家を名乗っているようです。

 浜松市中区の西来院(せいらいいん)にて

  


Posted by エル at 22:04
Comments(0)観光歴史

2017年03月27日

江戸の印刷書物は家康の御かげか?

徳川家康は出版書物に力を注いだと聞いた事があったがそれに係わった人物の墓に出会いました。
林五官(りんごかん)の墓です。

 説明によると
天正2年(1574)中国、明の貿易船が遠州灘沖で大暴風雨にあい西島海岸に4人漂着した。その内の1人、林五官(りんごかん)は明に帰らず残った。徳川家康は林の才能、医師両替運送を知り加護する。文字で残すのは木簡竹簡から木版になったが紙が中国で発明された文字を簡単に残す事だできる。林の御かげか銅の活字の鋳造は日本で初めてだったという慶長11年(1606)のこと。
 家康は徳川幕府体制の指示、浸透を活字文字文による強化に役だったでしょうか?。
 江戸時代の出版物が多くの庶民が読むことができたのは家康の御蔭だったでしょう?。
 
 子孫は林家を名乗っているようです。

 浜松市中区の西来院(さいらいいん)にて

  


Posted by エル at 22:04
Comments(0)観光歴史

2017年03月26日

井伊直虎ゆかりの地ー37 おんな城主・直虎 

 井伊家は家督を継ぐ男性がいなくなった。今川家からの目付役の小野但馬守政次は戦には参加したかったようで生きていた。井伊家は頼りになるのは南渓和尚だけであった。 
南渓和尚は永禄8年(1565)虎松(5歳)の後見人として龍潭寺に出家していた次郎法師を女性であったが当てようと考えていた。龍潭寺境内の松岳院に虎松を移して祖母・祐椿尼(ゆうちんに、直盛の妻千賀)、直虎(次郎法師)実母・しのが教育したと井伊氏物語にある。
 松岳院跡

 松岳院位置 矢印松岳院

 松岳院は直盛公の妻(千賀)が亡き直盛供養に建てた庵(いおり)です。

 井伊家の存亡の事態にかねてから井伊家と係わりのあった奥三河衆の柿本城主、鈴木重時(新城市下吉田)、宇利城主、近藤康用(新城市中宇利)、三河長篠の菅沼家から分家し都田(浜松市北区)に住す菅沼忠久らの協力を得なければならなかった。家老の小野但馬が今川家から井伊の家老は私一人、虎松の後見人になる事態になった。そこで動いたのが井伊家の血筋を受けた南渓和尚である。井伊家直系の次郎法師を井伊家地頭職にして名を直虎と改める、虎松の後見人にすると皆に伝えた。

 菅沼忠久の都田城祉


 城址を訪ねた時、地元の方も知らないという、知られていない
 近くに菅沼家は寺で聞いても一軒も住んでいませんでした。都田城と言うよりも館か?都田菅沼家は地元には資料がない。

都田城址関連記事

 
つづく
 
  


Posted by エル at 15:00
Comments(0)観光歴史伝説

2017年03月25日

井伊直虎ゆかりの地ー36 直平、中野、新野死す

 井伊家の当主直親を殺害した今川氏真は遺子の虎松を殺せと命令が来た。今川家から目付として来ている、次郎法師の叔父の新野左馬助は今川氏真に助命を佐馬助自身の命掛け願い許され虎松と母親のしのを新野家に匿う。今川氏真は父義元の弔い合戦のため永禄6年(1563)9月、織田信長攻めに兵を三河へ出す。井伊家20代75歳の直平は出陣するが白須賀(豊橋市)で直平の陣から出火し今川軍はビックリし混乱、軍を引き上げた。なぜか不明。武田軍の行動が怪しかったか?
 同じ歳の9月に杜山(もりやま)城(磐田、八城山)の天野氏が反旗をあげる。今川氏真から天野攻めを受け直平出陣、途中、旗屋村有玉旗屋、(浜松市有玉南町)で落馬し死亡する9月18日という。諸説あるが直平死亡は途中で引馬城主・飯尾連龍(つらたつ)の妻、お田鶴の方(椿姫)の出したお茶を呑んだ事から毒を飲まされたと云われている。白須賀の出火は飯尾連龍の放火説あり。
直平の遺体は家臣の大石作衛門が川名の向山に埋葬する。
直平の墓

 大石家の末裔は川名に今も住しているという
近くの渓雲院 直平の寺

川名地区

 直平は川名に隠居していたためか向山という寂しい所に一墓だけある、この近くに住していたのであろうか。

 井伊直平死亡により井伊家の血縁男子はいなくなった。

 永禄7年(1564)引馬城主・飯尾連龍が今川に反旗、血族男がいなくなった井伊家は城主・中野と新野左馬助が出陣、城東天間橋(安間橋)で2人共討死する。
 中野家墓所 龍潭寺内

 新野墓 龍潭寺内 

 新野左馬武神社が御前崎市にあります
引馬城は落ちず飯尾と今川は和睦する。12月に今川氏真は飯尾連龍を駿府に呼び出し殺害する。屋敷を取り囲み100人で切り込み切腹させたとも云う。今川家は呼び出して殺害するという手段で疑わしき者は消していた。城主を喪った引馬城をお田鶴の方はなお抵抗し最後は「女城主」になって鎧に薙刀で武装、侍女17人と門から討って出て全員討死したという。お田鶴の方を椿姫と言うが碑を建て椿を植えたことからのようです。
 引馬城を拡大して浜松城名にし徳川家康は移り住む
直親(亀之丞)と信州松源寺へ行動を共にした今村籐七郎はどうしたか? 新野氏に付いて井伊家にきて直満の家臣になったようですが主人亡き後は嫡男の亀之丞を守り井伊家に重要な役割をはたした。勝間田から今村に改姓して信州へ行ったようです。駿府には直親に同行していなかったようです。天正元年(1573)12月23日没といいます。
 今村家墓 龍潭寺内



関連記事


 つづく
  


Posted by エル at 14:18
Comments(0)観光歴史伝説

2017年03月24日

井伊直虎ゆかりの地ー35 直親殺害される

 桶狭間合戦後今川家から離反する三河衆、人質になっていた松平元康(家康)も岡崎城に入り離反した。幼い時に織田信長と会っているようで親交を深める。三河国との境に接している井伊家に離反の疑いを持つのは過去の事もあり考えられる。井伊家家老の小野但馬は今川家から井伊家の目付役、何らかの事を今川方に情報を届けていたかもしれない。
 今川義元亡き後に家督を継いだ氏実から井伊直親に駿府への出頭命令が来た。離反の疑いを懸けられたのだ。
 直親は家臣18名と駿府へ向かう、今川家臣・朝比奈泰朝の懸川城下にて朝比奈兵に取り囲まれ主従19名全員が殺害された、それは永禄5年(1562)12月14日,直親27歳、遺子の虎松は2歳という。
 殺害された場所と云われる所
 地名になっている「十九首・じゅうくしょ」

 しかしここは平将門の「十九首塚」の石碑、説明板がり井伊家のことはない

 だが、井伊直虎ゆかりの地の幟はなびいていた

 掛川城

後年、井伊家一族から掛川城主として4代在住していたが直親公を祀らなかったのであろうか?

 直親の遺体は龍潭寺の僧か 蜂前神社関係者が井伊谷へ運び都田川右岸で火葬した。
 都田川右岸の墓

 


 つづく

 6℃ → 17℃ 曇りのち晴れ  


Posted by エル at 12:10
Comments(0)歴史伝説

2017年03月22日

植え換えて咲くか? ヤマシャクヤク

もの静かに咲く山芍薬(やましゃくやく)
 プランターに種蒔きして咲いたのですが底から根が出てきまして植え替えないと・・・
 昨年の写真



 お願いして山土地に植えさせていただきました
 赤丸内に芽がでています

 植え替えはだめ!と言う事ですが挑戦してみます

 山は赤土のよう、土を選ぶようですがさて、どうでしょう

 咲くか

 咲かないか

 それが問題だ 咲くのは来年か




  


Posted by エル at 20:51
Comments(0)草花

2017年03月21日

巨木 樹齢1000年 清田の大楠 

 国の天然記念物に指定されている蒲郡市の「清田の大樟・せいだのおおくす」 樹齢約1000年といわれる巨木の樟です。 

 どこから見ても凄いですね

 民家が脇まであり全体の写真が撮れない

 葉も枝も勢いがいいですね。
 樟は臭いことからクスシが語源
 葉を蒸溜して防虫剤、樟脳になるとか
 木は腐敗に強いことから船材料、加工しやすいので彫刻像に使われるそうです。

 説明文によると
 この一帯は明治初期まで樟の樹海であったが開発で、この一本が残った
 目通り 14.3m 樹高 22m
 樹木医の指導により
 目元を耕し、土をほぐす
 土中の赤土や小石を取り除く
 炭やススキを混ぜて埋め戻す
 ヨシズを敷き根元を保護する
 などを大クス愛好会が保護に努めているそうです。

 清田の大樟




   


Posted by エル at 15:31
Comments(0)自然地域産物

2017年03月19日

井伊直虎ゆかりの地ー34 人質交換

 永禄4年(1561)直親と、シノの間に待望の男子が「虎松」が生まれる、後の直政である。今川家は桶狭間の戦いで当主が討死し混乱し尾張、三河の諸将は今川方から離反が相次ぐ。大高、鳴海、沓掛、地鯉鮒城(知立)の各城は明渡し退却して行った。松平元康(家康)は空になっていた岡崎城に入る。暫く今川の様子を見届けるが人質から独立し松平家の勢力拡大の好機と今川家から離反し織田信長に協力する。牛久保城を攻め、さらに今川家親臣・鵜殿長照の上ノ郷城(蒲郡市)を攻めるが落ちない、忍びを使い城に火を付け落城させる、長照は自刃。子の氏長、氏次を捕虜にする。
 地元の伝承では鵜殿長照は乱戦に紛れて城を脱出し清田町の安楽寺横の坂で判資定に討たれたという、この坂を鵜殿坂と言い、坂で転倒し怪我をすると一生治らないという伝説があるという。
 国指定、清田町の大クス


 松平元康が今川家に叛いたことから駿府の人質、元康の妻・瀬名と子供2人竹千代、亀姫は斬首になる事になった。
 松平家から人質交換の申し入れがあった。
 鵜殿氏長兄弟の祖父の妻は今川義元の妹であったことから親族であり三河の今川衆が離反する中、今川家に最後まで忠誠しての落城を評し人質交換に応じることになった。
 今川方に戻った鵜殿氏は二俣城の松井氏にいたが武田軍と徳川軍に攻められた今川氏滅亡する。鵜殿氏は徳川氏に投降し家臣に取り立てられ旗本になったという。

上ノ郷城跡 (愛知県蒲郡市)

 

つづく
  


Posted by エル at 11:30
Comments(0)観光歴史伝説

2017年03月18日

井伊直虎ゆかりの地ー33 桶狭間の戦い・豊明市古戦場

 永禄3年(1560)5月19日の織田信長と今川義元の桶狭間の戦いは名古屋市緑区と豊明市にまたがる地域であった。名古屋市緑区は「桶狭間古戦場公園」として豊明市は「桶狭間古戦場伝説地」としてパンフレット記載しいずれにも義元の墓碑がある。この一帯が戦闘の地であることは間違いないようだ。
 豊明市(栄町南舘)の「桶狭間古戦場伝説地」を訪ねる。名古屋市緑区の「桶狭間古戦場公園」から北東へ約850mの所である。
 今川義元本陣跡 今は高徳院がある。
 院は明治27年(1894)高野山から移転したという。

階段を上がると義元本陣跡石碑がある

 今川末裔が史跡内に建てようとしたが許可されず院に昭和50年建てたという、本陣ではない?
 狭間山に義元本陣というが・・
 高徳院の高台からもう一つの本陣跡と云われる狭間山を見る
 今はホシザキ電機の会社がある所と云う、ホシザキ電機のある所が本陣だったろうか?

 高徳院の階段を下りた正面に「桶狭間古戦場伝説地」が公園になっている 

 公園内 

 義元の墓 今川治部大輔義元墓 明治9年(1876)有松の山口正義建てる。旅人が弔古碑を墓と間違え線香を手向けていたので墓碑を建てたという。本物の墓は何処か?

 墓の裏手に今川上総介義元戦死所と刻まれた石碑がある

 明和八年十二月十日造 
 ホシザキ電機に本陣があったとしたら織田軍に奇襲され義元は北約400mの所て討ち死した事になる
 桶狭間山⇒から守られ移動したが伝説地で討たれた

 
 桶狭間山は平らになり会社が建ち今は何も無いという。

 この戦いで井伊家は当主・直盛と家臣15人を喪った。直盛の遺言により家臣・中野直由が井伊家当主になる。

 つづく



3℃ → 19℃ はれ 夕方曇り   


Posted by エル at 16:05
Comments(0)観光歴史伝説

2017年03月17日

神田の黒梅 見頃ですよ

 愛知県設楽町神田(かだ)地区に例年春の訪れを告げる紅梅が見頃を迎えています。
 幹が黒くなることから「黒梅」の愛称で
 新聞に記載され遠方からもカメラを持った多くの観光客が盛んにシャッターを押していました。



 
 ただ、道路脇に休耕畑がありますが耕作していない畑でも入らないのがマナーです。
 写真撮影に夢中になって「お構いなし」は頂けませんね。  

 設楽町神田サクラガタ 「黒梅」




  


Posted by エル at 09:00
Comments(0)草花

2017年03月16日

建物火災から山林へ延焼中

前方に煙が多く揚がっています、どうも火災のようです。
 GSで燃料を入れていると消防車がサイレンを鳴らして走っていきます。
 帰宅中に

 新城市徳定地内、徳定でも西部になります。
 定かではありませんが、あの辺りに「徳定寺」があったと思いますがその南側付近でしょうか?
 時々風も強くなりますから延焼が心配です。
 防災無線が山林延焼中と放送

  


Posted by エル at 15:05
Comments(0)事故、出来ごと

2017年03月16日

カモシカさんも花見に来ていましたよ

 新城市長篠、旧田口線河津桜の写真です。


 カモシカさん、私達を気にしながら桜観賞でしょう



 週末は最後の賑やかな観賞になりそうです。

  


Posted by エル at 10:55
Comments(0)草花

2017年03月15日

満開でしょう 川売の梅林です

 新城市海老、川売(かおれ)の梅林写真です。 





 一番の見頃でしょうかね~ェ




  


Posted by エル at 15:18
Comments(0)草花

2017年03月13日

新居・巣作り始めました ヤマガラさん

 今朝、9時ごろコツコツコツと庭から音が聞えるんです。板をたたくような、キツツキさんか?と庭に出て聞いていると、どうも巣箱の中から?しばらく聞いているとヤマガラさんが顔を出したんです。
 内部を口ばしで叩いて床が抜けないか点検していたのでしょう 

 顔を出して周囲を見回している

 築10年ですからね

 苔を少し咥えて巣箱の中へ

 荒い苔で大凡巣を作りしばらく休み

 まだ、幼鳥の餌になる昆虫がいませんから場所取りを兼ねて巣作りをして桜の咲く頃に産卵、抱卵のようです。


 

  


2017年03月12日

井伊直虎ゆかりの地ー32 今川氏のこと

 地頭の井伊家を好まない今川家とはどのような家であったのか
 今川氏は源氏系の足利氏から吉良氏を名乗りその分家である。三河国幡豆郡今川荘、今の愛知県西尾市今川町辺りを領し足利氏を支える家柄であった。足利義兼の孫長氏が吉良家の祖であり分家が国氏が今川家の祖という。

 家紋も「足利二つ引両」と「今川赤鳥」である。

 今川赤鳥は形が熊手に似ている、垢取り?定かでない
 鎌倉幕府滅亡後、南北朝の乱世になると今川氏は足利尊氏の北朝に属し戦功を上げ今川範国は駿河、遠江の守護職に任じざれ世襲となる。しかし鎌倉幕府再興に係わったとして斯波(しば)氏に遠江国を取られる。この時斯波氏に加勢したのが井伊家である。今川氏は再度遠江を納める事になるが井伊家を滅亡に追い込まない。南北朝には後醍醐天皇の子、宗良親王を擁護して北朝と対峙した井伊家は生き残った。
 武田氏に攻め込まれた今川氏実は掛川城に逃げたが徳川に攻められ妻の実家、北條氏を頼り落ち行く。この辺りが今川氏の命を取らず特別扱いされている事が分かる。豊臣秀吉に北條氏は攻められ敗れると徳川氏に庇護の下、近江野州郡、今の滋賀県野州市に500石を受ける。その後、氏実は武田勝頼を攻めに参加したという。遠江の牧野城主になるが翌年解任された。今川家は高家の出から徳川氏は上手く使い朝廷との交渉に携わったようで徳川家光からは多摩郡井原村、今の東京都杉並区今川など500石加領され1000石となる。妻の早川殿が慶長18年(1613)亡くなると翌年12月28日江戸で77歳で亡くなった。
徳川氏氏に改修された今の駿府城跡



 今川氏実は命を落とすことなく絶えて今川再興を願ったことだろう。明治維新まで家系は続いたが家禄を失い家系男子は早死、娘は他家に嫁ぎ今川直糸は断絶したという。明治20年11月3日のことだった。
 今日の江戸の菩提寺は杉並区今川二丁目の宝珠山観泉寺である。

 つづく

 3℃ → 17℃ 晴れたり曇ったり


  


Posted by エル at 19:37
Comments(0)観光歴史伝説

2017年03月11日

結婚式へ行ってきましたです

 天気も好く暖かい一日でしたです。
 結婚式がありまして出席しました。
 式場はここです、浜松城公園にて浜松城をバックに人前式でした。
 浜松城は出世城と言われていますね

 披露宴はコンコルド浜松です

 公園駐車場では全国から600組のよさこい祭り?次々と踊っていた 


 大勢の方の祝福 

新郎の町内会の方?フンドシ姿でエールを


 ミニライブ


 と言う事で約3時間の愉しい披露宴でした。

 お二人さん、ご結婚おめでとう お幸せに

 わたしは次の総会へと急ぎました。




  


Posted by エル at 22:52
Comments(0)行事

2017年03月11日

38万キロの旅に・・

一度は行きたいと子供のころ思っていましたが・・・



 見ると砂漠状態、でも行きたいですね。



  


Posted by エル at 10:25
Comments(0)気になる事

2017年03月10日

井伊直虎ゆかりの地ー31 城代・中野直由 

 桶狭間の戦いで戦死した直盛の遺言により井伊家城代になった中野直由(なおよし)は井伊家の分家であった。井伊家伝記には
 井伊家18代忠直―19代直氏―20代直平―21代直宗ー22代直盛ー直虎(次郎法師)と続く
 18代忠直から直房・中野家祖ー直村ー直由―直之・・・と続く
 今川義元が桶狭間で戦死すると今川家内も反逆する者が多くなる。引馬(曳馬)城主・飯尾豊前が今川氏真に叛いた。永禄7年(1564)9月に井伊家に飯尾攻めの命が氏真から発せられ城代中野直由出陣するが城東、天間橋にて討死する。 
 中野家4代の墓

 龍潭寺境内にある
 この時、新野左馬助も討死している。

 引馬城は後の浜松城


 つづく
  


Posted by エル at 12:10
Comments(0)観光歴史伝説

2017年03月09日

ヤマガラさん、入居前の見学?

 今日もヤマガラさんが巣箱に来ている。
 建築から10年物件ですが入居するか入念な下見を繰り返しているヤマガラさん夫婦です。 

 陽射しが春らしくなり毎年新居を探しに苦労している?

 自然環境が変わり、好い巣作り場所が見つからないらしい

 左右側面点検


 部屋内も 尾しか写っていない

 顔を出す

 私を見て 

 
 大家さん 宜しく? と

 言っているかどうか icon