2017年03月05日
井伊直虎ゆかりの地ー30 桶狭間の戦い・義元の胴体墓
今川義元の西進の命により井伊家からは22代当主直盛、奥山朝利や息子・孫一郎らが出陣した。しかし桶狭間で今川方の大敗の連絡が届き、帰郷したのは傷ついた奥山朝利と孫の孫一郎だ、直盛は首だけになっての帰還だった。孫一郎の話では直盛は「最早これまで、孫一郎、自刃する、首を井伊谷に届け様子を話せ、井伊家は中野直由(なおよし)に任せる」と遺言し命をたったと言った。
龍潭寺の直盛の墓左 右は初代共保の墓

桶狭間戦死者の墓 武将16名が眠る

桶狭間の戦いを織田信長の家臣・太田牛一が「信長公記・しんちょうこうき」として書き残している。それによると18日に大高城に兵糧を補給したのは家康であり休息していた。信長は今川方が城砦を次々に攻撃している情報は得ていたが18日夕刻には作戦の話はなかった。19日明け方信長は鷲津山、丸山砦が攻撃受けるの報告が入ると「敦盛」を謡い舞い、「法螺貝(ほらがい)を吹け武具をよこせ」鎧兜着け、立ったまま食事をし小姓衆6人で一気に3里(約12km)を駆け熱田に着いた。その時には雑兵200ほどだった。さらに佐久間信盛の善照寺砦に入り将兵も集結しだし状況をみる。今川は4万5千の兵、桶狭間で人馬を休息させていた。19日午の刻(正午ころ)北西に陣を張り城砦次々に落し満足と謡いを三番うたったそうだ。信長は義元陣の山際まで軍勢を寄せた時、激しいにわか雨が石か氷を投げつけるように降った。大きなクスノキが倒れたほどだった。空が晴れるのを見て、信長は槍を取り「それ、掛かれ!」と叫ぶ。敵は後へどっと崩れ義元の興しを捨て逃げた。「義元の旗本はあれだ、あれに掛かれ」と信長の下知。未の刻(午後2時ごろ)東へ向かって攻めかかり、敵は初め300兵ばかりが丸くなって義元を囲んで退いていたが2.3度4.5度打ち合い切り合う内に人数が減りついに50人兵になった。信長も馬を降り若武者どもと乱れ掛かり火花を散らし突き伏せ突き倒す。敵味方は旗指し物の色で知る。信長の馬回り・小姓衆傷討死数知れず。服部春安は義元に打ちかかり、膝を切られ倒れる、毛利良勝は義元を切伏せて首を取った。桶狭間は狭く入り組み深田に足を取られ、草木茂り難所であった。泥田に逃げ込んだ敵は抜け出せず追掛け2.3と首を取った。信長は馬の先に義元の首を掲げ急いで帰陣、日のある内に清州に到着した。翌日、三千余の首実検をした。義元の鞭(むち)と弓懸けを持った今川の捕虜がいた。首を見せ名前を書き付けさせた。捕虜には金銀飾りの大刀・脇差を与え義元の首を持たせ、僧10人を付け送り返した、とある。
武田方は桶狭間の戦いを「甲陽軍鑑」のなかで高坂弾正は次のように書いている。
信長公27歳の時、人数700ばかりにて義元公人数2万にいぞんだ。駿河勢の諸方乱取りに散りたる間に味方のように入交、義元公三河出家衆と酒盛り中「敵はなきぞ」と思っていた時、信長公討ち入り義元公の首を取給う、とある。
油断が大敗であったと書いている。
豊川市大聖寺の今川義元墓 胴体が葬られているという

信長は義元の首を駿府へ帰している。
豊川市にある墓は胴体が祀られていいる。
今川義元の葬儀は永禄3年6月5日、駿府臨済寺にて南渓和尚が安骨大導師を務める。
乱取り=適地で屋敷などに勝手に乱入して財産食料などをぶんどる事。寺、神社などは上納金を納め安堵状を受けた。
4.5℃ → 20℃ 晴れのち曇り
龍潭寺の直盛の墓左 右は初代共保の墓
桶狭間戦死者の墓 武将16名が眠る
桶狭間の戦いを織田信長の家臣・太田牛一が「信長公記・しんちょうこうき」として書き残している。それによると18日に大高城に兵糧を補給したのは家康であり休息していた。信長は今川方が城砦を次々に攻撃している情報は得ていたが18日夕刻には作戦の話はなかった。19日明け方信長は鷲津山、丸山砦が攻撃受けるの報告が入ると「敦盛」を謡い舞い、「法螺貝(ほらがい)を吹け武具をよこせ」鎧兜着け、立ったまま食事をし小姓衆6人で一気に3里(約12km)を駆け熱田に着いた。その時には雑兵200ほどだった。さらに佐久間信盛の善照寺砦に入り将兵も集結しだし状況をみる。今川は4万5千の兵、桶狭間で人馬を休息させていた。19日午の刻(正午ころ)北西に陣を張り城砦次々に落し満足と謡いを三番うたったそうだ。信長は義元陣の山際まで軍勢を寄せた時、激しいにわか雨が石か氷を投げつけるように降った。大きなクスノキが倒れたほどだった。空が晴れるのを見て、信長は槍を取り「それ、掛かれ!」と叫ぶ。敵は後へどっと崩れ義元の興しを捨て逃げた。「義元の旗本はあれだ、あれに掛かれ」と信長の下知。未の刻(午後2時ごろ)東へ向かって攻めかかり、敵は初め300兵ばかりが丸くなって義元を囲んで退いていたが2.3度4.5度打ち合い切り合う内に人数が減りついに50人兵になった。信長も馬を降り若武者どもと乱れ掛かり火花を散らし突き伏せ突き倒す。敵味方は旗指し物の色で知る。信長の馬回り・小姓衆傷討死数知れず。服部春安は義元に打ちかかり、膝を切られ倒れる、毛利良勝は義元を切伏せて首を取った。桶狭間は狭く入り組み深田に足を取られ、草木茂り難所であった。泥田に逃げ込んだ敵は抜け出せず追掛け2.3と首を取った。信長は馬の先に義元の首を掲げ急いで帰陣、日のある内に清州に到着した。翌日、三千余の首実検をした。義元の鞭(むち)と弓懸けを持った今川の捕虜がいた。首を見せ名前を書き付けさせた。捕虜には金銀飾りの大刀・脇差を与え義元の首を持たせ、僧10人を付け送り返した、とある。
武田方は桶狭間の戦いを「甲陽軍鑑」のなかで高坂弾正は次のように書いている。
信長公27歳の時、人数700ばかりにて義元公人数2万にいぞんだ。駿河勢の諸方乱取りに散りたる間に味方のように入交、義元公三河出家衆と酒盛り中「敵はなきぞ」と思っていた時、信長公討ち入り義元公の首を取給う、とある。
油断が大敗であったと書いている。
豊川市大聖寺の今川義元墓 胴体が葬られているという

信長は義元の首を駿府へ帰している。
豊川市にある墓は胴体が祀られていいる。
今川義元の葬儀は永禄3年6月5日、駿府臨済寺にて南渓和尚が安骨大導師を務める。
乱取り=適地で屋敷などに勝手に乱入して財産食料などをぶんどる事。寺、神社などは上納金を納め安堵状を受けた。
4.5℃ → 20℃ 晴れのち曇り