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2014年06月17日

長篠設楽原の戦い・見聞録 77

 米倉丹後守重継(正継)の墓 

 激戦地丸山と連吾川を過ぎ、この辺りの北方向に米倉重継の墓があると地図を見ながら看板を探すが見当たらない。
 畑仕事をしている方に伺うと「丹後守の墓ならそこを右に北へ行けば左に看板があるから」と教えていただく、工事中の新東名の北下に在った。地は新城市大宮長頭貝津。
長篠設楽原の戦い・見聞録 77
 墓は連吾川右岸にある事から織田軍に真向から突撃し馬防柵2.3を突破して頃地に攻めて来たが多勢には及ばず討死にしたと思われる。
長篠設楽原の戦い・見聞録 77
 小荷駄奉行などを務める、遠征の時は敵地にて食糧など調達する、トラブルを起こさないようにする重要な役目であった。

 天文21年(1552)信濃苅屋原城攻めに鉄砲玉除けに竹束を考案したという。竹束を楯にして玉を弾き飛ばす、跳ね返す奇策を考えた軍師でもあった。
長篠設楽原の戦い・見聞録 77
 左上に新東名高速道路が建設されている

 米倉家のその後
 重継死後、忠継→信継→清継・・・・・・と続く、長男春継は早死したようです。
 その春継が鉄砲に撃たれ深手を負い死を覚悟した時、甘利昌忠から妙薬は「馬糞汁」だと聞かされ拒んだが命には代えられず飲むと蘇生したという逸話がある。
 子息・忠継が継ぎ、武田家が織田軍に滅ぼされると忠継は家康に内密に接して仕官を望み織田に内緒で秋葉山山麓に匿われ織田の落ち武者狩りを免れた。家康はこの先を考案じてか武田方の武将を多数抱え後に強力軍団になって行く。
 信継は大阪夏の陣で河内に移動する家康秀忠が通る街道脇の民家店舗小屋を取り壊し安全に通れるようにする「清め役」をうけた。これは鉄砲狙撃から守るため,信長は狙われた事があるからという。
 子孫は請負奉行などつとめ1万5千石を領し老中柳沢吉保とも親戚関係にあった。明治維新では県知事子爵になる。子孫は横浜市など各地に住んでいるという。

 米倉丹後守重継の墓








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Posted by エル at 00:18
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