2017年02月05日
井伊直虎ゆかりの地ー15 ロケ地高根城跡と親王
NHK大河ドラマ「おんな城主・直虎」のロケ地になった浜松市天竜区水窪の高根城に私が最も探していた後醍醐天皇孫「尹良親王・ゆきよししんのう」の伝説があると読み、直虎から少し離れると思ったが井伊家先祖が宗良親王を擁護していたから関係ないことはない。

ロケ地に来た経緯はNHKがドラマの時代考証を担当された小和田哲夫氏(静岡大学名誉教授・文学博士)に相談されたところ「当時の城はこの高根城しかない」と言われたそうです。
家から1時間45分程走ったどろうか、昼めし時間が近くなったので駐車場で買って来た御握りを2個食べる。水窪には飲食店はあるがコンビニはない。
城上り道

約25分登る

大手門

二曲輪から見た本曲輪


縄張り

尹良親王の事を店、図書館に訪ねると知らないという。
城址駐車場に上がる手前の案内板に
城の始まりは応永21年(1414)奥山金吾正と諸氏が尹良親王を守護するため奥山に仮宮を設け標高420m、比高150mの通称「三角山」の山頂部に築いた。城からは北遠江と南信濃を結ぶ街道(秋葉・塩の道)を眼下にする重要な国境警護も兼ねていた。と説明に尹良親王の事が書かれていた。
奥山氏は井伊家と同様に今川氏の配下にあったが今川氏の衰退から武田氏の信州遠山土佐守に永禄年間(1558~70)に攻められ落城。その後は武田、徳川に所領安堵状を受けたが内部分裂がおこり奥山宗家は滅亡し傍系(直系から別れた系)が継いだようである。
武田配下時に軍役を務め当時に城の大改修が行われた。
本曲輪 左・井楼櫓(せいろうやぐら)と稲荷神社

「本曲輪」だけだったものから「二曲輪」「三曲輪」が構築されたことが平成6~11年にかけて発掘調査して解った。出土遺物構造から元亀2年~天正3年に改修されたもの。
天正4年(1576)武田軍勢力が一掃されると高根城は役目を終え廃城になった。
三角山 水窪街からみる

城跡から下りて近くの民家に何か尹良親王の伝説はないかと伺うと奥様が「私では解らない、下の家に御年寄りがみえるから訪ねたら」と
言い城跡の案内文をいただく。御年寄り宅に伺うと88歳の御老人がみえた。水窪町文化協会会長を務められ城跡発掘調査に貢献された方と後で判りました。私の質問に心好く話され井伊家の奥山氏との関係も調査された判明しなかったそうです。「これを持って行って読んで」と町教育委員会発行の高根城調査誌4冊を貸していただいた。今日、初めて会った何者か解らない私に信用して貸していただき感謝です。
本曲輪 東南約30m 東北約20m
北側に建物痕 南端に土塁状高さあり
二曲輪との間に約10mの堀切
二曲輪 南北約20m 東西約5m
曲輪間は幅10mの逆三角堀 土橋で繋がる
三曲輪 南北約20m 東西約5m
幅約10m 深さ8mの逆三角切堀
高根城落城時の話
奥山貞益の妻・おかわ御前は3歳男子と幼児女子を連れ逃げるが水窪川で幼女を流してしまう。山道を男子を連れ逃げ民家で休む。家人に「来たことは誰にも話さないで」と話し追手が迫り逃げる。「池の平」で身を隠していたが男子が鳴き見つかり殺害された。其処には「おかわ地蔵」が祀られている、平年は水がないが7年に一度「池の平」は水が溜まり池になる。流した淵を赤児淵(あかんぶち)と伝えています。
近年、池に水が溜まらないそうです。
調査誌にも尹良親王の詳細は書かれていなかった。
つづく
参考文献 高根城発掘誌 水窪町教育委員会発行
ロケ地に来た経緯はNHKがドラマの時代考証を担当された小和田哲夫氏(静岡大学名誉教授・文学博士)に相談されたところ「当時の城はこの高根城しかない」と言われたそうです。
家から1時間45分程走ったどろうか、昼めし時間が近くなったので駐車場で買って来た御握りを2個食べる。水窪には飲食店はあるがコンビニはない。
城上り道
約25分登る
大手門
二曲輪から見た本曲輪
縄張り
尹良親王の事を店、図書館に訪ねると知らないという。
城址駐車場に上がる手前の案内板に
城の始まりは応永21年(1414)奥山金吾正と諸氏が尹良親王を守護するため奥山に仮宮を設け標高420m、比高150mの通称「三角山」の山頂部に築いた。城からは北遠江と南信濃を結ぶ街道(秋葉・塩の道)を眼下にする重要な国境警護も兼ねていた。と説明に尹良親王の事が書かれていた。
奥山氏は井伊家と同様に今川氏の配下にあったが今川氏の衰退から武田氏の信州遠山土佐守に永禄年間(1558~70)に攻められ落城。その後は武田、徳川に所領安堵状を受けたが内部分裂がおこり奥山宗家は滅亡し傍系(直系から別れた系)が継いだようである。
武田配下時に軍役を務め当時に城の大改修が行われた。
本曲輪 左・井楼櫓(せいろうやぐら)と稲荷神社
「本曲輪」だけだったものから「二曲輪」「三曲輪」が構築されたことが平成6~11年にかけて発掘調査して解った。出土遺物構造から元亀2年~天正3年に改修されたもの。
天正4年(1576)武田軍勢力が一掃されると高根城は役目を終え廃城になった。
三角山 水窪街からみる
城跡から下りて近くの民家に何か尹良親王の伝説はないかと伺うと奥様が「私では解らない、下の家に御年寄りがみえるから訪ねたら」と
言い城跡の案内文をいただく。御年寄り宅に伺うと88歳の御老人がみえた。水窪町文化協会会長を務められ城跡発掘調査に貢献された方と後で判りました。私の質問に心好く話され井伊家の奥山氏との関係も調査された判明しなかったそうです。「これを持って行って読んで」と町教育委員会発行の高根城調査誌4冊を貸していただいた。今日、初めて会った何者か解らない私に信用して貸していただき感謝です。
本曲輪 東南約30m 東北約20m
北側に建物痕 南端に土塁状高さあり
二曲輪との間に約10mの堀切
二曲輪 南北約20m 東西約5m
曲輪間は幅10mの逆三角堀 土橋で繋がる
三曲輪 南北約20m 東西約5m
幅約10m 深さ8mの逆三角切堀
高根城落城時の話
奥山貞益の妻・おかわ御前は3歳男子と幼児女子を連れ逃げるが水窪川で幼女を流してしまう。山道を男子を連れ逃げ民家で休む。家人に「来たことは誰にも話さないで」と話し追手が迫り逃げる。「池の平」で身を隠していたが男子が鳴き見つかり殺害された。其処には「おかわ地蔵」が祀られている、平年は水がないが7年に一度「池の平」は水が溜まり池になる。流した淵を赤児淵(あかんぶち)と伝えています。
近年、池に水が溜まらないそうです。
調査誌にも尹良親王の詳細は書かれていなかった。
つづく
参考文献 高根城発掘誌 水窪町教育委員会発行